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世間では自分の「居場所がない」と悩んでおられる人がいますが、クリスチャンは最高の居場所を見つけました。イエス様を信じて、イエス様の中に生きる者とされたのですから。クリスチャンは独りぼっちではありません。イエス様の者として、イエス様のご支配とご計画の中で生きる者となったのですから。その現実を念頭に、クリスチャンが遭遇する試練に対応していく必要があります。すでに、“試練(迫害)の中で勝利するために”、試練を予期し、試練を喜び、試練の先を見ることを学びました。ペテロは続けていくつかのことを教えチャレンジしています。
I. 試練を経験することは幸いです(14節)
(クリスチャンであることには関係ない試練もあるが)ここでは明確に、イエス様に対する信仰をもっていることによる苦しみに言及しています。イエス様を代表し、イエス様の名を公に告白することゆえの侮辱行為を受ける可能性について言っています。(12~13節を踏まえ)イエス様のための、勝利に到達する苦しみは神様が評価されるものであるので、「幸い」なのです。この節では明確に御霊の臨在が理由とされています。クリスチャン者が苦しむ時、御霊(神様)の臨在が特別にあり、自身のちからを超えるちからと忍耐が与えられるのです。クリスチャンであるがゆえの苦しみは、まさにそのしるしなのです。御霊なる神様はすべてのクリスチャンの上に臨まれ、内に住まわれます。
II. 試練を経験することは恥ではありません(15~18節)
ペテロは先ず、誤ったかたちで試練を経験してはならないことを教えています。罪を犯したゆえの試練は単なる苦しみとなり、益を見出すことにはなりません。もし苦しむなら、(15節にリストされている邪悪さでなく)イエス様との結合ゆえのものでなければならないのです。
イエス様を信じる人々は当初、“ユダヤ人、兄弟たち、弟子、信者、この道の者”と呼ばれていました。それが、使徒の働きの11章で初めて“クリスチャン”と呼ばれるようになったのです。教会の歴史の初期においては、“クリスチャン”は、イエス様に従う者たちに対する嘲笑的な意味で使用されていましたが、後に彼らはこの呼ばれ方を好み受け入れたのです。
ペテロは、クリスチャンは、イエス様にあって不名誉となることは全くない、むしろ神様をあがめる機会としなさいと教えています。
試練を恥じることなく、神様をあがめるべき理由は、神の国が明確にあらわされる前に、さばきが行われることにあります。(預言書には、先ず神の民に、そして国々にさばきが行われることが書かれており、クリスチャンの試練は終末のさばきの前触れとしての位置付けのように思われます)クリスチャンにとってのさばきは、罪に対する罰ではありません。クリスチャンの、善行ゆえの苦しみを含む、神様の愛の御手による教会の精錬です。イエス様が教会をきよめ、強めるために与える試練を耐え忍ぶことの重要性をペテロは説いています。神様があえてご自分が愛する教会を(精錬というかたちで)さばかれるのであれば、イエス様を信じない人々へのさばきはどのようなものになるのでしょう。クリスチャンの苦しみがすでに起こっているのであれば、クリスチャンではない人々への最後の審判はまもなく確かに到来することを予期することができます。
III. 試練を経験する自身を委ねなさい(19節)
イエス様に対する信仰ゆえの試練は、神様の御心の中で起こっていることです。“ゆだねる”とは、銀行業務における言葉で、“安全な場所に預ける”ことを意味します。苦しみの中にいる信仰者は神様に自身を預けることができるのです。「真実な創造者」という表現は、試練の只中での神様の愛とちからを思い起こさせます。このお方に委ねる人は、神様の自分に対する関心や能力を疑うことがありません。ペテロが使用した「創造者」という言葉は、読み手に、神様に人生を預ける時、それは神様が創造されたものをお返ししているにすぎないことを思い出させます。創造と新創造を経験している者にとって、最も理にかなった行為です。その委ねる行為を「善を行いつつ」するのです。良い働き・善行は信仰者にとっての動かぬサインであり、それこそクリスチャンであることの神髄です。
まとめ:クリスチャンの試練は尊い
尊い神様が、深いご計画をもってご自分の栄光のために個々を取り扱われるゆえ、クリスチャンの経験する試練は尊いのです。神様の御手の中にある以上、何が起こっても安心です。むしろ神様はクリスチャンの歩みの益になるようにと、見えるところにおいては好まない経験をお与えになるのです。そうであるなら、苦しみの中で神様をあがめようではありませんか。苦しみの中で自分自身を神様に委ねようではありませんか。イエス様の御名のために多くの苦しみを経験してもなお、それを恥としなかったパウロの信仰の告白を自らの告白にしようではありませんか。(IIテモテ1:11~12)