先日 ホームスクール&チャーチスクールの家族の集まりに参加した。
5家族の集いであったが、皆牧師家族。つまり子供たちは(16人)は皆牧師子弟(PK)ということになる。子どもたちは、他の牧師の子供たちとの交流を楽しんだ。「自分たちは皆牧師子弟」ということをどれだけ意識したかはわからない。しかし年齢によっては、牧師家族の一員であることを「外側から」見る良い機会になったのかもしれない。ある共通点を見いだし、また違いも見いだす。そういう中で、励まされたり、視野が広げられたり、自分が置かれている立ち位置を吟味することができる機会となったのかもしれない。自分は牧師子弟として育っていく中で、おそらく「外側から」見るということは大人になるまでほとんどしてこなかったのではないかと思う。クリスチャンが少ない環境にいただけに、牧師子弟というよりも、ほぼすべてのことが「クリスチャン家庭の子供」というとらえ方で処理されてきたように思う。しかし振り返ってみれば、「普通の」クリスチャン家庭ではない経験が多々あった。そして負の出来事の中には、牧師子弟ゆえに起こったことがあったはず。それを今になって整理することはできない。ただ次のPKを育てる側となって、自分ができることはなんだろうかと考える。してはいけないことはなんだろうかと考える。「牧師の家庭はそんなものなのだ、とにかく頑張れ」と無責任なエールを送ろうとしてしまう自分がいて、一方では「私も同じようなところを通ったんだ」と大雑把に彼らの置かれている状況を理解しているかのごとく振る舞ってしまう。「牧師子弟だからこうあらねば」という、目に見える、そして見えないプレッシャーは存在する。親として彼らのプレッシャーをゼロにしてあげることはたぶんできない。しかし軽減する努力はできると思う。少なくとも私が彼らに誤ったプレッシャーを与えないようにしたい。自分のすることが、彼らの信仰の歩みを困難にする原因になってはいけない。神様を愛し、神様のために生きる喜びを取り上げてしまうようなことになってはいけない。牧師子弟であることは特別な恵みだ。でも「恵み」ということばだけでは片付けられない、そして片付けてはいけない繊細で微妙で敏感な部分への愛による育みは親の務めであり責任だと思っている。そう思うと正直うろたえる。自分を彼らの父親に選ばれた神様のご計画は間違いではなかったとはわかるけれど・・・