聖書の神は人を造られた③:罪の本質

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人がなかなかイエス様を信じることができない理由の一つは、罪が理解できないからです。ほとんどの人は自分が「つみびと」だとは思っていません。それではどんなに救いの道が語られても、人々にはそれが良い知らせとして届くことはないのです。罪がわからなければ、ゆるされること、救われることの必要を覚えることがないからです。

罪の定義は様々ではありますが、簡単に述べるならば、神様の律法(決まり)を守らないことと言えるでしょう。(Iヨハネ3:4)神様は聖なるお方です。罪は、このお方のご性質に反することすべてです。(詩篇51:4; ローマ8:7; ハバクク1:13)今回は罪の本質について考えます。

I. 罪は特別の種類の悪
人は理性をもった存在として造られました。ですから、人がすべきでないことをしたり、すべきことをしなかったとき、またあるべきでない状態にあるとき、あるべき状態にないとき、罪を犯していると認められます。(土砂崩れで家が押しつぶされるとき、それは悪いことではありますが、それが罪というわけではありません。)

II. 罪は神の律法を守らない悪
神様によって造られた人(道徳的、理性的被造者)は、このお方から律法を授かっています。神様の律法を一言で表現するならば、“神を愛し、隣人を愛する”です。(マタイ22:37-40)これを完璧に守ることができる人はいませんから、皆が律法を破っており、罪を犯していることになります。律法と罪との関係は以下のとおりです。
①律法が求めていることを、し損なうのは、禁じていることを行うことと等しい罪です。積極的に犯されたものが罪として取り扱われるように、なすべきことを果たさなかった怠慢も罪として取り扱われます。(ヤコブ4:17)
②一つの点にでも落ち度があればそれは律法全体を犯したことになります。
(ガラテヤ3:10; ヤコブ2:10)
③“律法を知らなかった”は通用しません。(ルカ12:47-48)知らなかった場合の罰は軽くされるかもしれませんが、罪として取り扱われることには違いがありません。
④律法を守る能力があるかどうかは問題ではありません。人がどの程度従うことができるかが、人の側の責任の度合いを決めるのではなく、罪の大きさを決定するのでもありません。神様のきよさをあらわす神の律法が、唯一の基準です。
⑤有罪感(罪悪感)は罪の事実に比例しません。道徳的基準が低くなると、良心はそれほどとがめを感じなくなり、その結果、ほとんど罪の感覚が亡くなってしまうことはありえます。

III. 罪は行為であるとともに、原理/性質
罪の行為の背後には(心の中の)肉欲や憎悪が存在します。(マタイ15:19; 5:21-22, 27-28)罪には、性質そのものと、その性質が表面にあらわれるものとがあります。罪が行為となって外に表れる以前に、人の内に性質として存在しているのです。(ローマ7:8, 17)
罪の汚れを発生させるのは、人の内に存在する悪の性質であり(エレミヤ17:9; ルカ6:45)、きよめられる必要のあるものです。(詩篇51:2)
罪の汚れは、暗くなった知力として(エペソ4:18; Iコリント2:14)、邪悪な思いとして(創世記6:5; ローマ1:21)、恥ずべき情欲として(ローマ1:26)、悪いことばとして(エペソ4:29)、汚れた知性と良心として(テトス1:15)、制御できない意志(ローマ7:18-19)としてあらわされます。

これらの、神を喜ばす能力の欠如を、聖書は「死」と言っています。(エペソ2:1, 5; コロサイ2:13)イエス様を信じていない人が徹底的に腐敗しているわけではなく、知的・道徳的能力を持っていないわけでもありませんが、神様との関係においての霊的いのち、神様を慕い求める心、神によって与えられるきよさを欠いており、同時に罪に汚れ、罪に傾く性質をもっていることは事実です。

IV. 罪の本質は利己主義
神の律法を守らない理由は人の利己主義にあります。神様の第一の戒めが神への愛であるなら、罪の本質は自己への愛ということになります。(イザヤ53:6)(自尊心、自己保存、自己改善など、正しい意味での自己愛は存在しますが)神様の利益よりも私利私欲を優先する自己愛が罪となります。“利己的でない”ことの意味を、身をもって示されたイエス様(ヨハネ5:30)のお姿と私たちが、いかにかけ離れた存在であることでしょうか。

まとめ: まことの神様を知ると罪の本質がわかる
この世界のすべてをお造りになった神様は、すべてのことの基準であられます。それゆえ善悪の基準、何が罪であるのかということについては、神様の基準ではかられなければなりません。人についての正しい評価・さばきは、このお方の基準、そしてこのお方がお定めになったことに基づきます。罪についての神様のお考えと、人のそれとでは大きなひらきがあります。人は神様の基準を前にするならば絶望しかないでしょう。神様の前における罪、そしてその深さを知るとき、罪の結果(の罰)への危機感が現実のものとなるでしょう。それでこそ、神様が御子イエス様によって準備された救い・ゆるしがどれほど素晴らしいものであるかを知ることになるのです。私たちの罪は、私たちの理解を超えて醜く酷いものでありますが、イエス様のみわざはそれをすべて取り除いて余りあるものです。このようにして聖なる神様との交流を可能にされたとは、なんと感謝なことでしょうか。(ヨハネ1:29)

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