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クリスチャンは、神の存在を信じています。その神様はこの宇宙のすべてを造られました。そこに人間も含まれています。神様はすべてのことを知っておられ、すべてのことがおできになります。神様はきよく正しいお方であられると同時に愛と憐みのお方でもあられます。聖書は、人間のことも記しています。人間は神様に造られた被造物です。人間は自身の存在を全面的に神様に依存しています。神様は人間に自由意志を与えてくださったので、神様に従って幸せであり続けることもできますし、神様に逆らって不幸になることもできます。残念ながら、最初の人間は後者を選びました。不幸な人間の歴史の始まりです。それまで存在しなかった罪がこの世界に、そして人の心に入ってきました。それ以来、人間は皆罪の性質(神様に逆らって生きる性質)を生まれながらにして持っているのです。人生に苦難や苦しみがあるのはそのためです。そして罪を持った人間は死ぬことが決まってしまい、また死んだ後の終わりのない刑罰が定まってしまいました。それゆえ(部分的には幸せを経験できても)人間は究極の幸せを手にすることができないのです。でも神様は、そんな人間たちに救いの手を差し伸べてくださいました。すべての人間が抱える罪の問題の解決方法を準備されたのです。それがイエス・キリスト様です。イエス様は神様ですが、人間となってこの世界に来られました。赤ちゃんとなってお生まれになったのです。(これがクリスマスのお祝いです)イエス様には罪がありません。そのイエス様が人間(私やあなた)の身代わりとなって死なれたのです。人間には罪があるので死んで永遠に罰を受けることになっているのですが、イエス様が代わりになってくださったので、赦してもらえることになったのです。イエス様はご自分のではなく、人間(私やあなた)の罪のために死なれ、三日目によみがえられました。イエス様の復活は、このお方にはまったく罪がないこと、そしてイエス様を信じる人間を、赦し、助け、永遠に幸せにすることができることの証明です。自分は神様の前に罪のある人間であり、そんな自分のためにイエス様は身代わりとなって十字架で死んでくださった(そしてよみがえってくださった)と信じるなら誰でもすぐに(そして永遠に)救っていただくことができます。
聖書にアブラハムという人が登場します。ユダヤ人が尊敬する人物です。この人も神様が用意してくださった方法を自分のものとして受け取り救われたのです。彼が何かをしたとか、努力の結果で救われたのではありません。ただ神様を信じたのです。
*アブラハムの信仰による義認(13~16節前半)
アブラハムは(割礼などの)儀式を行って救われたのではなく(9~12節)律法(きまり)を守ることによって義と認められた(救われた)のでもありません。神様はアブラハムと約束してくださいましたが、約束の最後にはイエス・キリスト様によって世界中が祝福(幸福)を受けることが含まれていました。そしてイエス様を信じているクリスチャンは(イエス様のおかげで)その約束を相続しているのです。
律法(神様の基準)を完璧に守った人だけが約束を受け取るのであれば、(そもそもそれは不可能なのですが)信仰に価値はありません。達成が不可能な条件が付いている約束は無効です。
神様の基準が示されると、人間の罪深さが暴露されることになります。神様の基準を誰も完璧に満たすことができないと、それは違反になりますから、神様の怒りを招くことになります。しかし、神様の救い(義認)の方法は、人が信じるということです。信じることで、義と認められ、約束を手にすることになります。義認を可能にするのは、神様の偉大な恵みです。
*アブラハムの信仰の模範(16節後半~17節)
アブラハムと同じように信じる人には、同じように約束の保証が与えられます。アブラハムは、死んだような夫婦に子供を授けてくださった神様、そしてその子供に続く豊かな子孫を与えてくださった神様を信じました。人間には神様の前に評価していただけるような義はありませんが、そんな人間を、義を持った者として扱ってくださるのです。神様はイエス様の義を人間に転嫁することによって、義でない罪人の義を宣言してくださったのです。そのためには(罪人ではない)イエス様を罪と宣言し罰する必要があったのです。
*アブラハムの信仰の中身(18~22節)
パウロは、義認は(人ではなく)神様のちからがもたらすものであることを示すことでこの章を締めくくります。アブラハムの信仰は、(どのように救われたのかということにおいて)すべてのクリスチャンの基準となるものです。アブラハムは、人の視点においては不可能と思われることを信じました。普通では不可能とはっきりしていながら、神様への疑いを拒絶し、超自然の神様に栄光を帰したのです。“思い切ってした”というのではなく確信したのです。アブラハムの正真正銘の信仰は、“義として彼に対して勘定された”のです。
まとめ:アブラハムの子は信仰によって救われ信仰によって生きる者
アブラハムが神様を信じたことにより、彼は多くの国民(くにたみ)の父となりました。クリスチャンは皆“アブラハムの子”です。義のない者を義と認め、無から有を発生させることができるお方(すべての源であられるお方)を信じる者たちです。アブラハムは、現実がどうであっても信じました。約束を疑わないで信じました。そして約束を守ってくださる神様に栄光を帰しました。イエス様を信じて義と認められたクリスチャンも、アブラハムのように、有言実行される神様のちからを信じて生きていくことができる者たちです。


