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新約聖書はイエス様の系図で始まり、最後にイエス様が登場されます。実はこのお方を通して(ある意味において)クリスチャンは、この系図に加えられたのです。
ローマ人への手紙を書いているパウロが予想した質問があります。それは、“もしアブラハムが信仰のみによって義と認められたのであれば、割礼の目的は何なのか”というものです。今回の箇所で彼が提供する答えは、割礼について悩んでいる者たちの憂いを取り除くだけでなく、宗教儀式や活動を義認(救い)の根拠としている多くの人々に光を与えることになります。
*救い(義認)は儀式を必要としない
パウロは8節で用いた同じ言葉である「幸い」を9節で用い、ダビデの話から再びアブラハムの話へと戻っていきます。「幸い」とは、神様の前における罪が赦され、責められることが何もない状態のことです。ある人たちは、ユダヤ人(割礼のある者)
だけがこの「幸い」を持っていると考えるかもしれません。割礼は(健康面の利点もあるのですが)罪を“切り落としきよめる”ことを象徴するものです。ここでのパウロの主張は、ダビデが受けた恩恵を、アブラハムも受けたというものです。アブラハムは、未だ割礼を受けていない時に「幸い」を受け取りました。アブラハムはその時、実質的には異邦人の一人のようだったということです。この事実は、異邦人への義認の祝福の門を大きく開くことになるのです。救いにおいて、割礼を受けているか受けていないかは関係がありません。神様の民となるためにユダヤ人である(ユダヤ人になる)必要はないということです。
*救い(義認)は信仰による
ダビデは(詩篇32篇を記した時)割礼を受けていたでしょう。しかし、アブラハムは、「信仰が義と認められた」時、未だ割礼を受けていませんでした。イシュマエルが誕生した時、アブラハムは86歳でした。(創世記16:16)アブラハムが、義と認められたのは、それ以前のことです。彼が割礼を受けたのは、少なくとも(義と認められた)14年後、彼が99歳の時(イシュマエルが13歳の時)です。(創世記17:24~26)
パウロは10節の最後で答えていることに(アブラハムの信仰による義認と(後の)割礼との関係性について示すことによって)説明を加えています。割礼は信仰による義認の証印です。つまり、割礼は以前になされたことの「しるし」です。(創世記17:11)割礼は、基本的には、神様とイスラエルとの契約に関する外面上のしるしなのですが、アブラハムが信仰によって神様の義を受け取ったことを示すために意味を拡大しています。これは霊的きよめと神様との契約関係が必要であることを示すものです。「心に割礼を受けていない」人は罰せられるのです。(エレミヤ9:25~26)割礼は、信じる人たちに、信仰による義認の扱いを確証させるのです。それは義とされる信仰を証しするものです。それゆえ、割礼はそれだけで何か意味(重要性)をもっているわけではありません。割礼がなくても、神様の民に加入することに影響を与えることはありません。割礼があっても、義認が不在なのであれば、神様の民に属している証明にもならないのです。しかし、アブラハムの割礼は、義認の事実を示し確認するものです。
*救い(義認)はアブラハムと同じ方法による
アブラハムは、割礼を受ける前に義と認められました。そのことによって「信じるすべての人の父」となったのです。割礼を受けていない時に信じたという事実により、異邦人にとっての父です。神様を信じて、割礼を受けたという事実により、ユダヤ人にとっての父です。アブラハムは、信じることによって義と認められたことで、割礼を受けている人、そしてその上で割礼を受けていない時のアブラハムの信仰にならっている人(アブラハムの信仰を共有している人)にとって、「割礼の父」となりました。
まとめ:義認の幸いを手にした私たちはアブラハムの子
神の御子であられるイエス・キリスト様を自分の個人的な救い主として信じた人は、“アブラハムの系図に加えられた者”という位置付けです。(ガラテヤ3:29)アブラハムの霊的家族に入ることができるのは、行いがあるからではなく(3~8節)、割礼を受けているからでもなく(9~12節)信じたからです。アブラハムは私たちの信仰の模範ですが、それ以上に、彼が神様の約束の受け取り手であり、仲介者として、その経験がモデル(範例)となっていることが重要です。私たちクリスチャンは、アブラハムと同じ手続きを経て尊い救いに与っていることを覚えたいと思います。アブラハムの子であるなら、その信仰に倣う者でもあるべきです。(ガラテヤ3:7)


