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前回は、神様が義と認めてくださるのは、人の行いではなく、神様の恵みによることを学びました。今回はさらに、義認が、神様の側の犠牲が伴うものであり、また人の側の信仰によることについて学びたいと思います。
イエス様の血しおによる
義認には犠牲がともなっている(ローマ5:9):「血によって」というときに、イエス様の死が暴力的なものであり、罪のあるものたちのための身代わりであることが示されています。イエス様において、旧約時代に象徴とされていた生贄の成就(具体化)を見ます。そこには流血の死の現実があります。またイエス様の死が暴行死であることは、ユダや祭司長、そして総督ピラトのことばからわかります。(マタイ27章)さらにイエス様の血は、イエス様の死と贖いのみわざ全体を説明しています。罪人はイエス様の流血を伴うみわざにより義認(救い)を得たのです。(ローマ3:25; エペソ1:7; Iペテロ1:18-19; 黙示録1:5; ヘブル9:12; 13:12; コロサイ1:20; エペソ2:13; ヘブル10:19; Iヨハネ1:7)イエス様の血が流されることで、赦しを得たのです。(ヘブル9:22; マタイ26:28)
イエス様が人の罪の刑罰を身に負われたことにより、神様は人の罪を赦し、神様の人に対する愛顧(交わり)が回復しました。十字架におけるイエス様の死が 罪人に対する神様の要求を満たしたことは、①イエス様の復活によって証明され(ローマ4:25)、②聖霊の賜物(聖霊の内住)によって証明されました。
信仰による
信仰は義認の条件である(ローマ3:26,28,30; 5:1; 10:10):義であられる神様は罪を大目に見たり、ご自分の義と妥協することはできません。しかし完全な身代わりであるイエス様の死により、義認が可能になりました。義認は、継続的結果を伴う一度(のみ)の法的宣言です。(ガラテヤ2:16; 使徒13:39; ガラテヤ3:8,24参照)その宣言を“自分のため”と受け入れることが信仰です。義認は“信仰のゆえにではなく、信仰によって”です。信仰は義認のための代価ではなく、それを自分のものとする手段なのです。
まとめ:罪人はイエス様の十字架のみわざゆえに信仰によって救われる
イエス様は肉体を取られ、この地上を歩まれ、十字架へと進んでいかれ、死なれ、葬られ、よみがえられ、天にお帰りになりました。この父なる神様の御心を行われる過程において、イエス様の念頭にはあなたのことがあったのです。これは特別なことです。イエス様が受けられた十字架の肉体的苦しみを部分的には想像できるかもしれません。しかし罪を背負うことの意味、全人類の罪を背負うことの意味、そしてそれに向けられる義なる神様の怒りがどのようなものであるかを知り尽くすことはできません。そうであっても、知ろうとする努力は必要ではないでしょうか。救われなかったなら入ることになった終わりのない苦しみとはどんなものでしょうか。その時に初めて本当の幸せ、本当の価値、何が真実かを正確に知ることの絶望感とはどのようなものでしょうか。イエス様に「あなたのことは知らない」と言われることの悲劇とはどのようなものでしょうか。イエス様の十字架の死(そして復活)はこれらのことが起こらないために受けられた犠牲です。そのために流された尊い血しおです。このようにして備えられた救いを、ただ“信じる”という一つの条件によって実現してくださった神様をほめたたえ続けようではありませんか。