主の受肉の理由④:罪を取り除くため

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https://youtu.be/mZ9UGpLxfyk

クリスチャンではない方に、「イエス様が罪人を救うためにこの世界に来られた」ということをお話しても、「罪人とは自分のことである」と認識する人はほとんどいないかもしれません。そうだとしたら、福音メッセージは、正しい意味で人を不快にさせることがないのです。人がどう感じるかに関係なく、人の罪はその人を、想像をはるかに超える不幸へと導くものである事実を聖書は語っています。それであるからこそ、イエス様はこの世界に来られたのです。

I. 罪を取り除く必要
罪を持つ人間は罪を犯さないではいられません。それが人間の性質だからです。そして罪人は皆、「死」という支払いをしなければなりません。この死は、肉体的なことのみならず、永遠に続く神様との分離を意味します。人の中にある罪が聖なる神様との交流を妨げているのです。(ローマ6:23; ヨハネ8:34; ヘブル9:22)

II. 罪を取り除く方法
キリスト様によって:イエス・キリスト様は私たちの罪を取り除くためにこの世界に来られたのです。(ヘブル9:26)
罪のないキリスト様によって:罪を取り除くためにこの世界に来られたお方は、罪のないお方です。(Iヨハネ3:5)
罪のないキリスト様の究極の奉仕によって:罪のまったくないイエス・キリスト様は人に仕える存在として来られました。(マルコ10:45)これは犠牲の伴う、“罪の除去”という奉仕です。イエス様がその務めをまっとうするためにはどうしても人となることが必要だったのです。イエス様はご自分の死によって人を罪から贖って(買戻して)くださいました。そしてその死は身代わりの死であったのです。義なる神様は罪をお怒りになり、さばかれるお方ですが、イエス様の死はそれを満足させる償いでした。
旧約の時代、贖罪の日には一頭のやぎが罪祭としてささげられ、もう一頭の頭上では罪の告白がなされ、その後に荒野に放たれます。(レビ16:20-22)これは後に完璧な罪のためのいけにえとなられた「神の子羊」なるお方の模型です。(ヨハネ1:29)
罪のないイエス様は罪がある者のように罰せられました。(イエス様は罪人の罪を背負ったのであって、罪人となられたのではありません。)このことのゆえに、イエス様を信じる者は、神様の前においては罪のない者のように扱われるのです。(IIコリント5:21)
イエス様の死は、罪のあるすべての人のために味わわれたものです。イエス様が代わりとなられたことにより、信じる者はその死(罰)を味わう必要がないのです。(ヘブル2:9)

III. 罪を取り除く結果
神との関係正常化:イエス様が私たちのために「罪とされ」たことにより、私たちは神様の前に義と認められています。(IIコリント5:21)それは神様との間で障害となっていた罪が処理されたことにより、神様と平和の関係が与えられたことを意味します。(ローマ5:1)
罰の免除と永遠の幸い:罪が処理された者(そしてそのことを信じた者)はもはや罰を受ける必要はなく、永遠の祝福が約束されています。(ヨハネ5:24; ローマ8:1)
神の奉仕者:神様との関係を正しいものとし、ゆるしといのちが与えられているクリスチャンは、神様にお仕えする者となります。神様から与えられた新しい人生の原則を土台として、新しい性質と人格を示す生き方へと変えられるのです。(ローマ6:4)罪の奴隷であったところから解放された者として、今度は神様の奴隷(義の奴隷)として神様に喜んで自分をおささげするのです。(ローマ6:13,18,22)死と死後の罰の恐れから解放された人は、神様から与えられる平安と喜びに満たされ、神様に賛美と感謝をささげる日々を送るのです。

まとめ: 肉体を取られたイエス様により、罪人は神との永遠の交流が可能となった
人は、何かに、誰かに支配されているとは思わないかもしれませんが、実は悪魔か神様のどちらかに支配されているのです。悪魔に支配されていれば、罪に、神様に支配されているのであれば、義に支配されていることになります。(神に背を向ける)罪の性質をもって生まれた人は、罪に支配されるしかありません。罪は自分自身を、そして自分と関わる人々を、そして人々が暮らすこの世界を蝕み続けているのです。文明が発達し、医学が進歩してもなお、人を死へと追いやる罪の問題を人は自ら解決することには成功していません。(それは今後もありません)多くの人々は、人の心の罪が問題であることに気付いてはいません。死は、「皆が経験しなければならないどうしようもないことなんだ」と無理に自分を納得させ、「皆同じ」というところで見せかけの安心をあたかも大いなる自信であるかのように掲げるのです。罪に支配されるとは、永遠の刑罰が現実であるということと、罪自体が重大問題である事実さえぼやけさせてしまう悲劇を抱えるということです。
人となられ、死なれたイエス様は、このような無知から、そして絶望から人を解放したのです。信じる者の罪をはぎとり、神様の支配へと、義の支配へと招き入れたのです。罪が取り除かれた者(赦された者)には、神様との交流の祝福が継続的に与えられているのです。イエス様はご生涯において教えをされ、(物質的・肉体的)必要を与え、模範を示されました。それは部分的・一時的には祝福となりましたが、それらはキリスト様が人の罪のために死ぬこと、そしてそれを人が個人的に信じることによって(それによってこそ)本当の意味で祝福となるのです。罪の問題が処理されてはじめて、神様との限りない交流の祝福に与り始めるのです。

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