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あなたがクリスチャンであれば、イエス様を信じていなかった時と信じ始めた時があったはずです。(信じた瞬間がいつどこでであったかはわからないかもしれませんが)では“信じ始めた時”には何が起こったのでしょう。“信じること”はどのように生じたのでしょう。イエス様への信仰はどこから来たのでしょう。今回は信仰の源について、神の側と人の側の両面を学びたいと思います。
信仰はどこから来るのか:神の側
クリスチャンは「信仰を受けた」人々です。(IIペテロ1:1)受けたということは与えられたということであり、与えてくださったのは神様ということになります。信じる(ことができるようになる)ことは、神様からの賜物(贈り物)です。神様が関わってくださり働いてくださるので、私たちは信じることができるのです。(使徒11:21)神様のちからある恵みの御手により、人の中に信仰が生じるのです。
生まれながらの人間は、神様のことが理解できませんから、当然信じることは不可能です。((Iコリント2:14)しかしその人に聖書の真実が知らされると、(聖霊なる)神様は真実を理解できるようにちからを与えてくださいます。人が、自身では信仰を生み出すことができない事実を悟って、信仰を生じさせてくださるお方に身を任せると、信仰が与えられるのです。
信仰はどこから来るのか:人の側
大前提は、「神の側」がなくては、人の側が成り立たないということです。
みことばを聞くことによって(ローマ10:14,17; ヨハネ5:47; 使徒4:4)
人は心を開いて聖書の真理に快く耳を傾ける必要があります。そうすれば、みことばには真理が満ちており、真理そのものがその信憑性を証明していることを知ることができるようになり、信じることができるようになります。
(聖霊なる)神様が覚醒を与えてくださり、信仰を持たせてくださいます。聖書のみことばは、(神様の前にあって)必要を抱えている人の姿を暴露し、神様の救いのご計画、救いの条件、救われる祝福を提示します。人は知らされることで信じ、救われた者としての歩みをスタートさせていくのです。
イエス様を仰ぎみることによって(ヘブル12:2)
神の御子であられるイエス様は、信仰によって生きるということを最初に完全に実行されたお方であられ、完成者であられます。イエス様は栄光に満ちた天からおいでになり、お生まれになり、十字架に架けられ、復活の後、天にお帰りになりました。イエス様は、このお方を信じる者にとって、信じることの模範であり、信じるためのちからを与えられるお方です。
祈る(願うこと)によって(マルコ9:24; ルカ17:5; 22:32)
問題のある息子を抱えた父親のように、人の中には信じたい心はあっても、自身にある疑問が信じることを妨げていることもあるでしょう。しかしこの父親がしたように、そのまま助けを求めることができます。
純粋な信仰には、神様への完全な信頼と忠誠が含まれます。神様のお考えに対して謙遜に服従し、快く行う必要があるのです。信仰者は、すでに持っている信仰を用いることが求められているのです。
イエス様は、私たちを信じないところから救い出し、信仰を増し加える手段をくださいます。(弟子のペテロの場合は信仰の後退からの回復へと導かれました。)イエス様の祈りのゆえに 信仰者の“信じること”は保たれているのです。
まとめ:神様はご自分を信じようと願う者に信仰を与えてくださる
さまざまな事柄がまことの神様を信じることの妨げとなっています。人の罪は、人の心を“信じること”ではなく“疑うこと”で満たすものです。また人の罪は、人の善意に悪をもってつけこみ、一方で人の善意を疑うのです。そのような人々によって形成されている社会においては信頼や信用が難しくなっています。
このような中で、目に見えないお方、そしてこのお方の見えないみわざを信じることは容易ではありません。現代を生きる自分と、時間も空間もかけ離れたところで起こったこととの関係を信じることは不可能のように思われます。神様の働きなくしては誰も信じることができません。そしてそれができなければ誰も救われることができないのです。ですから、信じることが出来た、救われることが出来たクリスチャンの存在は神様の奇蹟なのです。神様は今もなお、信じようとする人、そしてそれをしようとしてもできないと素直に認め求める人に信じる心を与えてくださいます。