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ある成功を遂げた経営者が言いました。“今は豊かな時代であるため、ある意味において、現代に生きる人は大変である。なぜなら苦労を見つけ、自ら苦労に飛び込まないといけないから。それゆえ、試練に遭ったときには、むしろ幸運だと思わなければならない”と。
ペテロの手紙を読んだクリスチャンの多くは迫害を経験していたと思います。その中にあって、勝利を経験するために必要なことを(今回の箇所を含めて19節まで)ぺテロは教えています。
I. 試練を予期しなさい(12節)
試練はあなたを愛しておられる神様が御心のうちに与えられるものであり、あなたの信仰を試すものです。時にそれは厳しく苦しいものであり、また誘惑の要素を含んでいるかもしれません。しかし、それらを偶然起こった奇妙なこととして驚いてはいけない、とペテロは言っています。それは金属がそうされるように、クリスチャンを純化し精錬する火のような役割があるからです。神様はクリスチャンの信仰を試し聖めるためにそれらを許され計画されるのです。(Iペテロ1:6-7; ヨハネ15:18; 16:33; Iヨハネ3:13)イエス様が経験されたこととその教えを念頭に、クリスチャンは試練を予期しつつ、それが成長を励ますものとなるように応答すべきなのです。
II. 試練を喜びなさい(13節前半)
試練を喜ぶことは命令であり、イエス様の苦しみに参加することです。ペテロは試練を喜び続けなさいと言っています。苦しみや迫害に対する普通の反応は悲しみとショックであると思います。しかし、それは幸いなことであり大いに喜ぶべきであると他の箇所でも言われています。(マタイ5:10-12)なぜなら、それはイエス様の苦しみに参加することだからです。私たちは(罪人を救うための)イエス様の苦しみを分かち合うことは当然できません。しかし、信仰者として正しいことを行うがゆえの苦しみであるなら、イエス様が人として忍ばれた同じ苦しみ、拒絶、非難、傷、痛みを受けることは可能です。その意味において、イエス様との同一化、一体感を経験するということ、イエス様ご自身の苦しみの経験に入るということです。(ローマ8:17; ピリピ3:10)
III. 試練の先を見なさい(13節後半)
ペテロは試練の先にある栄光を見なさい、と言います。今の試練は期限付きです。今の試練を喜びとすることができるならば、それは栄光の現れの際の喜びの先取りになります。イエス様はすでに天において栄光をお受けになっておられますが、地上においては未だ完全なかたちであらわされてはいません。しかし、イエス様が再臨される時、イエス様の素晴らしさが明確にあらわされるのです。(マタイ24:30; 25:31)その時、試練を通ったクリスチャンが、熱狂的なかたちで喜ぶことができる、そしてそのために今喜ぶようにと言われているのです。(ヤコブ1:2)“喜び続けなさい、そうすることでその時が来たら本当に喜ぶことになる”とペテロは言っているのです。義のために迫害を受ける人は、その報いゆえに将来において溢れる喜びを経験します。その将来の喜びを認識する時に、現在においても喜ぶことが可能となるのです。
(使徒5:41; 16:25)
まとめ:主にあって試練と喜びは両立する
イエス様に忠実に従っていこうとするなら試練を経験することになると、聖書は教えています。(IIテモテ3:12)肉体的な迫害はないかもしれませんが、なお信仰者として(特に精神的な)プレッシャーのかかる時代に私たちは生きています。その苦難ゆえ、信仰者であること自体が否定的なものであるという感覚になってしまうかもしれません。しかし、試練を通る時にこそクリスチャンは成長することを覚えたいと思います。私たちには、試練を耐え乗りこえ、さらにそれを喜びとする十分な理由があります。イエス様のみわざと模範、そしてイエス様の教えです。これらを見出すことができるみことばを豊かに蓄え、自分のものにし、みことばに生きることこそが、試練を肯定的にとらえ、さらには喜びとする秘訣です。