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高級ブランドや時計の偽物が出回っています。偽物を持っているだけでは基本的に罪に問われることはありませんが、本物だと思っていたものが、本当は違ったと知った場合にはそれなりにショックを覚えることでしょう。これが聖書が教えている真実に関することであれば、永遠に取返しのつかないことになります。あらためてみことばの真実の重要性を再認識したいと思います。
偽教師たちの誘惑を伴う悪影響(17~19節):
*彼らの欺き(17節前半):偽教師は何も良いものを持っていないため、何も提供できません。イエス様は泉の源なるお方(ヨハネ4:13~14)であられ、このお方を信じる者はその祝福に与ります。(ヨハネ7:37~38)泉や霧は、中東の旅においては必需品です。偽教師は飢え渇いた魂に霊的潤いを与えると装いながら何も提供できないのです。偽教師には不安定さとはかなさがあります。偽教師は霊的リフレッシュを約束するように見えますが実(中身)が存在しないのです。(ユダ12)
*彼らの破滅(17節後半):彼らには最高の闇、つまり地獄が用意されています。(マタイ8:12; ユダ13)
*彼らの誘惑(18~19節):彼らは空しい見栄を張った発言を多用します。高尚に聞こえる、学識や深い霊的洞察をにおわせることばを用い(時には神様からの啓示を装い)弱い者たちを欺くのです。実際のところ、彼らは聖書の教えに矛盾したことを語り、時には適切な説明ができないでいます。彼らの大げさな語りは不用心なものをわなにかける武器であり、放縦はわなの餌です。彼らは、空しい語りの一方で、肉欲的な(下劣な)宣伝により誘惑します。真実に訴えるというのでなく、性的誘惑という手法を用いるのです。彼らは肉の欲を追求することを可能にする宗教を提供します。彼らは、たとえば人生に失敗し、疲れ果て寂しくしている人をターゲットにし、結果的に食い物にするのです。彼らが語る自由とは、神様の権威からの自由、また罪を犯す自由のことです。実のところ彼らは真の自由を提供することはできません。なぜなら彼ら自身が滅びの奴隷だからです。偽教師について行く者はみな滅びの奴隷となります。偽教師は宗教や自由について語りますが、御子イエス様を知りません。それゆえ真の自由を与えることは不可能なのです。(ヨハネ8:36)
偽教師達の悲劇的な立ち位置(20~22節):
*その描写(20~21節):偽教師たちは、汚染された、有毒な蒸気のようであり、それは人に道徳的に致命的な影響を与えます。ある時点において、偽教師たちや彼らに追従する者たちが、この世界の道徳的汚染の構造から逃れようとし、宗教を求めたかもしれません。福音に触れ心動かされるものさえあったかもしれませんが、福音の中心であるイエス様を拒絶したのです。これは背教です。(ヘブル10:26-27)彼らは、一度は救われた人々というのではなく、初めから救いを体験していない人々です。一時はクリスチャンとしての経験を表明し、聖書の教えにも通じたかもしれません。しかし究極的にはイエス様を拒絶することを選んだということをその生き方によってあらわしたのです。ペテロが説明するこの類の偽教師は教会内で発生する可能性があります。どっちつかずのところに位置し、結局真実(権威ある神の教え)を拒絶し、自己満足のために他の人たちを誘惑するのです。
*その喩え(22節):ペテロは二つのことわざを引用し、偽教師への非難を締めくくっています。引用箇所に登場する犬や豚は、ユダヤ人にとって汚れた動物です。偽教師は汚れた存在であり、堕落した異教へと戻っていく者たちです。イエス様も、犬・豚の表現を神様とみことばに反対する者たちに使われました。聖くない動物が変わることはないように、彼らも変わることがないことを示唆しています。彼らは、性質に影響を与える内面の変化(新生)がない中で、宗教的“告白”や表面的変化をあらわしているに過ぎない状態です。そのような者たちはまもなく本当の姿へと戻っていくことになります。
まとめ:真実を感謝し真実の上に堅く立って歩みましょう
信仰者である私たちにとって、偽の教えからの最大の防御は、本物を見続けることです。真実の道から外れないための最善策はイエス様を見続けることです。聖書のみことばは信仰者の歩みを確かなものとします。そこには、戻ることができる原点があります。真実へと導き続ける確かな教えがあります。これこそが本物を握っている信仰者の確信であり平安です。(詩篇119:33)