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生活の中で問題を抱えると問題だけに目がとらわれ、物事を広い視野で見ることが難しくなります。クリスチャンは神様から永遠的視野を与えられているのですから、問題の中でも変わることのない神様を見上げ、神様のなさろうとしていることに目を留めるべきです。そのようにすることで、力強く逆境に立ち向かうことができます。今回は、神様が試練を通る信仰者たちを、勝利へと導いてくださることについて学びたいと思います。
I. 私の神はどのようなお方か(10節前半)
(8~9節で悪魔の攻撃について学びましたが)この節では、神様がどのようなお方であるかを学ぶことができます。
① 神様は恵みに満ちたお方です:私たちはどのような試練に遭おうともこの事実を忘れてはいけません。神様がそのようなお方であられるというのは、神様の愛の御思いに基づくものです。恵みは、“罪人は自身ではまったく不可能なことを神はされる”という美しい真実です。恵みはイエス様の血によってあらわされ、罪人の信仰(信じて受けとること)によって有効となりました。罪人である自分が本来いるべき所はどこなのかを認識するなら、この恵みの深さを認識できるでしょう。さらに信仰者としての歩みの中で、この同じ神様の恵みに同じ信仰ですがることができるのです。
② 神様は私たちをイエス様にあって永遠の栄光の中へと召してくださったお方です:神様は恵み深い目的をもってご自分の栄光をご自分の子どもたちと共有されるのです。“呼ぶ、召す”ということばを使い、神様の主権的なお働きを強調しており、(呼んだ者は必ず救うという)効果的な救いの召命を説明しています。信仰者は、生涯における苦労の向こう側にある、「永遠」の祝福を見ることが可能です。私たちは、永遠に主と共にいることができ、永遠に主のようになるのです。今の苦難は一時的ですが、「栄光」は永遠です。栄光とは、神様の霊の美しさであり、神様のご性質(すべて)から発せられ(あらわされ)る美です。
II. 私の神は私をどのようにしてくださるか(10節後半)
神様は私たちにどのように恵みを注いでくださるのでしょうか。クリスチャンが後の日に認識(理解)するであろう神様の目的には、今いくらかの(しばらくの)痛みを経験することが含まれます。そのことを理解して歩むようにと勧められているのです。敵はクリスチャンを個人的に攻撃しますが、イエス様はクリスチャンを個人的に完全な者とされます。そのことを4つの表現で説明し、神様は決して見捨てるようなお方ではないことを示しています。4つの事柄は力と堅固さに集約されます。これらのことは祈り・願いではなく、苦しみを通る者たちへの約束であり、またある事は既に起こっていることです。
先ず神様は、クリスチャンを神様の子どもにふさわしい者へと(人格を)整えてくださいます。また迫害で堅く立つことができるよう強めてくださいます。安定した者とするために苦難が用いられるのです。悪魔はクリスチャンを弱らせようとしますが、神様は試練を用い、強め忍耐させてくださいます。ペテロは5節以降で、主にあってクリスチャンが効果的に用いられるための成熟さへと成長するために必要な態度を提示しています。それらは、服従、謙遜、信頼、慎み、油断のない防御、希望、礼拝、忠実さ、そして愛です。
III. 私は神をどのようにほめたたえるべきか(11節)
ペテロは頌栄によって神様のちからを強調しています。計画し約束されるお方は、成就のためのちからをもっておられます。この事実はどれほど(この手紙の)読み手に励ましとなり安心を与えることでしょう。それゆえ「アーメン」との応答が可能なのです。ペテロは、神様が驚くべき方法で、苦難さえも逆手に取ってご自分の栄光をあらわされ、クリスチャンの益とされるゆえに神様をほめたたえているのです。
まとめ:目を覚まして歩む信仰者を神様は導いてくださる
まことの神様をどう理解するかが信仰者としての姿勢を決定付けます。クリスチャン生活においても試練に遭い、不可解なことは起こり、問題は発生します。大事なことはまず神様のもとに身を避けることです。みことばの原点に戻りましょう。(そのためには日頃からみことばを豊かに蓄えることが必須です)イエス様にある立場を確認し、感謝し、落ち着き、神様から平安をいただきましょう。その上で謙り、神様の導きを求め、知恵、ちから、洞察力をいただきましょう。神様を体験的に知っている信仰者は、導いてくださる神様の御手に満足し力強く歩んでいくことができます。