今日は復活節(イースター)です。これはクリスチャンが単に年中行事の一つとして祝うものではありません。十字架刑で死なれたイエス様が、肉体をもって復活されたことを本当のこととして信じて感謝して祝うものなのです。“死人の復活”は科学的にはありえないことですが、イエス様においては真実です。そして、この聖書の教えはクリスチャンの信仰の要です。イエス様がよみがえられたからこそ、イエス様を信ずることの意味があり、自身の復活の希望、そして永遠の希望を持つことができるのです。
今回は復活後にイエス様がトマスにお会いになった記事から、復活されたイエス様を信ずることの重要性を確認したいと思います。(ヨハネの福音書20章24~29節)
よみがえられたイエス様は(この章において)マグダラのマリヤにご自分をあらわされました。同じ日に、そのことを知った弟子たちに、イエス様はあらわれてくださいました。この時そこにいなかったのがトマスです。(ヨハネ11:16; 14:5)
I. 信ずることができない罪人(25節)
トマスがイエス様の復活の日になぜ他の弟子たち一緒にいなかったのかはわかりません。しかし彼は、他の弟子たちからイエス様との面会について繰り返し伝えられても信じませんでした。トマスは、イエス様の手の釘跡を見なければ、また自分の手をイエス様の手やわきに差し入れてみなければ絶対に信じないと言ったのです。
人は信ずることにおいて条件をつけるものです。“見なければ、体験しなければ、理解しなければ信じない”と。罪深い心は、傲慢さゆえ、素直に真実を受け入れることができません。また罪人と罪が蔓延するこの社会において、疑いの心を抱くのは必然です。
最初にイエス様の復活について知らされたトマスは、次の日曜日までをどのような思いで過ごしたのでしょうか。
II. 信ずることをお求めになる主(26~29節)
一週間後、トマスが加わった弟子たちは、前の週と同じ状況で(居る場所の戸を閉めて)集まっていました。そこにイエス様は入ってこられました。
安心することをお望みになる(26節):イエス様はまず弟子たちに、「平安があなたがたにあるように」と仰いました。(特に一週間前の弟子たちは)ユダヤ人たちを恐れて集まっている場所の戸に鍵をかけていました。恐れは人を精神的にも肉体的にも閉じ込めるものです。イエス様はそのような人に平安を与えたいお方です。復活のイエス様を信ずる時にその平安が与えられます。
寛容をもってお招きになる(27節):イエス様はトマスに向かって直接お語りになりました。トマスは、自分の一週間前の発言をイエス様がご存じであることに驚いたことでしょう。イエス様はトマスの信じない心をすぐにお叱りになることはされず、彼が望むように確認するようにとお勧めになりました。忠実でありながら、一方で悲観的なトマスに対して、イエス様は復活の証拠を示そうとされました。(IIテモテ2:13)彼が不信と失望の道を進むことがないようにと、イエス様は、“信じない者になることはやめて、信じる者になりなさい”と優しく促されたのです。
トマスにとってもう確認作業は必要ありませんでした。彼に復活のイエス様に対する信仰が与えられたからです。彼にはイエス様が主権者であられ、救い主であられ、神であられることがはっきりとわかったのです。彼は人ができる最高の告白をしました。(28節)(テトス2:13)
単純に受け入れることをお喜びになる(29節):トマスはイエス様を見て信じました。実は他の10人の弟子たちも同じです。しかしイエス様は、見ることができなくても受け入れる人の祝福を宣言されました。イエス様が天に昇っていかれた後、(今を生きる私たちも含めて)誰もイエトマスのようにイエス様を見た人はいません。しかしそのようなことがなくても、みことばを素直に受け入れる者、見た者たちの証しを受け入れる者、そして信ずる者には特別な祝福があるのです。(Iペテロ1:8-9; ローマ10:17; ヘブル11:1)
まとめ:死からよみがえられたイエス様を信ずることができる人は幸いです
イエス様を信じた人は負のものから解放されました。復活されたイエス様によって死の恐れから解放されたのです。同時に“信じない”ところから“信ずる”ところへと解放されたのです。イエス様の十字架の死と復活に対する信仰を与えられたクリスチャンは、いつまでも続く確かな希望を与えられたのですから、それに相応しく歩もうではありませんか。イエス様を信じること、みことばを信じることを常とし(現在進行形とし)その祝福を経験させていただこうではありませんか。