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1:18~3:20では、全人類が罪深く、義を必要としていることについて学びました。今回の箇所から5章までで、神の義が提供されること(義と認められること)について学んでいきます。今回は明らかにされた神の義について(義の源について)学びたいと思います。
*律法と預言者たちによって証しされた(21節)
人の努力によって獲得することが不可能である義を、神様は提供してくださいます。これは律法に従うことなくして与えられるものです。(ガラテヤ2:16; テトス3:5)そのことは、旧約聖書によって約束されています。(イザヤ51:6,8)示された神の義は、少なくとも三つの点で特別です。まず、①神様がその出所であるということです。(イザヤ45:8)また、その義は、②神の律法の罰則と原則、両方(の要求)を満たすものであるということです。(罰則について:主の身代わりの死は、律法を守ることに失敗した人に要求されている罰についての支払いとなった。原則について:律法の要求に対する完璧な従順は、完全で欠けのない神の義の要求を満たした。)(IIコリント5:21; Iペテロ2:24)さらに、その義は③永遠であり、受け取る者はその祝福を永遠に味わうことができるということです。
(詩篇119:142; イザヤ51:8; ダニエル9:24)
*信じることによって与えられる(22節)
神の義は、イエス・キリスト様を信じることによって与えられるものです。(ローマ4:5; 9:30; ガラテヤ2:16)神様は、信じるすべての者たちにご自身の義を与えることが可能です。その理由を次の節で説明します。すべての人は(例外なく)惨めにも神様の基準に見合うことに失敗したのです。(ローマ10:12)
*神の恵みによって与えられる(23~24節)
すべての人が、神様の定めた的(基準)を外し、皆が罪の下にあります。(ローマ3:9)最初の人アダムは、自身のすべての子孫の代表として罪を犯し、各人も罪の性質を持って生まれ、実際に罪を犯したのです。(Iヨハネ3:4; 5:17; ヤコブ4:7; ローマ14:23; 箴言24:9)それゆえ、人は神様に栄光を帰すことも、神様の栄光を受け取ることも、神様に似た者となることもできないのです。そのような人(罪人)に義認が与えられました。義認は、悔い改めて、信じた罪人に(功績や働きに関係なく)もたらされる神様の恵みの贈り物です。それはイエス様に「あって」与えられるものです。(エペソ1:7; コロサイ1:14; テトス3:7)「義と認められる」とは(正しい者になる、罪のない者になるのではなく)、正しいとみなされる、宣言されることを意味します。これは法的な表現であり、“義と宣言する”という意味があります。これには以下の事が含まれます。①罪の責めと罰からの赦免と、②キリストの義が信じる者へ転嫁されることです。(②は、神様に受け入れられるために必要な義が提供されるという意味です)神様は、イエス様の義(の功績)を土台として、罪人を正しいと宣言されます。神様は(イエス様の死において)信じる者たちの罪をイエス様の“口座”(勘定)に記入される(負わせられる)のです。(イザヤ53:4~5; Iペテロ2:24)神様は、イエス様の律法への完璧な従順を、信じる者たちに転嫁されるのです。(ローマ5:19; Iコリント1:30)このようにして、人は罪の責めから解放されるとともに、確かな義の装着を経験するのです。罪のある人間は、イエス様に対する信仰によってのみ、この神様の恵みの贈り物を受け取ることができるのです。この恵みのお取り扱いにはイエス様による「贖い」が含まれています。贖いは(昔の奴隷市場での)奴隷を解放するための身代金の支払いを指します。そのように、罪人を罪の奴隷(とその結果として相応しい罰)から買い戻す唯一の十分な支払い(方法)は、イエス様にあります。この支払いは、神様の正しさを満足させるものでした。
(Iテモテ2:6; Iぺテロ1:18-19)
*キリストのみわざゆえに与えられる(25~26節)
神様の偉大な犠牲のみわざは秘密裏には行われませんでした。イエス様によるみわざは、皆が見ることができるかたちで公けにされたのです。イエス様は血を流され、犠牲の伴う死を遂げられました。(ローマ5:9; Iペテロ1:19)イエス様の犠牲には「宥め」という重要な部分が含まれています。イエス様の暴力的な死は、本来罰せられるべき者たちに対する神様の聖さと怒りを正当に満たしたのです。「宥め」に相当するヘブル語は“贖いの蓋”(契約の箱の蓋)を指し、これは大祭司が、贖罪日に屠られた動物の血を振りかける場所です。ここで人々の罪の贖いがなされるのです。(出エジプト25:17~22; へブル9:5)イエス様は、その「宥め」そのものとなられたのです。(Iヨハネ2:2)神様は最初の人アダムとエバが罪を犯した時に、彼らを滅ぼし、共に全人類を滅ぼすこともできましたが、その慈しみ深さと忍耐により、一定期間さばきを差し控えてこられたのです。(詩篇78:38)神様は、御子イエス様の受肉・罪のない生涯・身代わりの死を通して、ご自分の義を明らかにされました。イエス様が、罪人の立場に立って罰せられました。それにより、神様の正しさを損なうことなく(正しさについて妥協することなく)、有罪の者を義と認めることができるようになったのです。これは神様の御計画における知恵が可能にしたことです。
まとめ:義を明らかにされた神に栄光あれ
私たちが信じる神様は、信じるすべての人に義を与えてくださるお方です。イエス様は、私たちの救いのために贖いとなられ宥めとなられ、神の義を明確に示されました。義そのものであられるお方によって義と認められていること(救われていること)のゆえに神様を真心からほめたたえようではありませんか。


