私を創り活かしていて下さる真の神様について聞くことの出来たのは、高校卒業の半年程前のことでした。当時、週に一度位、放課後にアメリカ人の婦人宣教師が来られ、バイブルクラスがありました。それは希望者が集って聖書を英語で学ぶ時間でした。或る時、同級生から誘われて出席しました。興味本位で参加しておりました。聖書についてはほとんど理解できませんでしたが、丁度クリスマス前で「主は来ませり」(の讃美歌)を教えられたことを覚えています。しばらくして宣教師は母国に帰る事になり、そのクラスは閉じられました。その時、一人の、教会へ行っていた信者が誘ってくれましたので、教会へも時々行くようになりました。私は当時卒業前でありながら、希望していた就職先もなく、将来が不安でした。
私は幼少の時、家族で台湾に渡り、終戦後引き揚げて来ました。戦災にあった祖母のもとで住むようになりましたが、近い身寄りもなく、生活は大変でした。それでも両親は私と4人の弟を一生懸命育ててくれていました。私も早く働いて家族を助けたいと思いましたが、将来は暗く不安でした。
そんな時に教会で聖書から教えを受ける事が出来ました。心の渇きを覚えていた私にとって、教会は新鮮で心を癒される場所でもありました。度々聖書から教えられるうちに、罪について示されました。それまで自分は正しい行為をしていると思っていた事が全く違い、神から罰を受ける者と聞かされました。よく考えてみると自分には汚れたみにくいものが満ちており、神様に創られながら感謝せず、自己中心の生活、偶像崇拝の習慣にならっておりました。
聖書には「罪の払う価は死なり」とあります。人の死ぬのは罪の結果であることを知り、悔い改めてその事実を受け入れなければなりませんでした。戦中・戦後の色々な苦しみ、死の恐怖、その原因が神様に対する罪と示されました。続きには「されど神の賜物は我らの主キリスト・イエスにありて受くる永遠の生命なり」とあります。神様は罪深い私を愛して下さり、御子イエス・キリスト様を遣わして十字架上で私の受けるべき罰を身代わりに受け、死んで下さった事、三日目に甦られ、今天に居られる事を知りました。悔い改めて信ずる者の罪を赦して下さり、永遠に活きる事の出来る生命を下さいました。聖書にある、「もはや己のために生きず、己に代り死にて甦えり給ひし者のために生きる」ことを決心しました。
それから60年以上になりますが、主イエス様とともに生きる幸いを経験しています。
現在私には回復不可能な病がありますが、凡てを最善に導かれる主イエス・キリスト様に頼りつつ平安を頂いて過ごしています。
讃美歌に、うるわしき天の国について
「天にある都では もはや死も悲しみも
うれいや涙さえも 主によって消えさる
たからかにハレルヤと 声合わせ歌いつつ
主を信じ喜びに みちあふれすすもう」
とあり、それはもう近いかも知れません。その時、後に来られる皆様と再会出来るのを期待しております。
(筆者は2018年5月9日 召天)