「何が問題かわからない」これはある政治家が言っていたこと。
聖書の神様は人に救いを与えてくださるお方だけれど、そのためには人の側が、何が問題なのかを認識しなければならない。聖書は、”人はみんな罪人”と言っているが、ほとんどの人はそれをそのまま同意しない。なぜなら、何が罪なのかわからないから、何が悪いことなのかわからないから。最初から、聖書が言っている罪が分かる人はたぶんいない。しかし、まことの神様を知ると、善悪の絶対的基準がわかり始めるので、罪を理解し始める。そうすると、なぜ人は死ななければならないのか、なぜ人は苦しまなければならないのか、なぜこの世界に、そして私たちの身の回りにこれほど悲しいことが多いのかを理解し始める。そうすると、人は聖書が言っている救いの必要に気付き始める。なぜイエス様が十字架で死んだのかがわかるようになる。なぜイエス様を信じる以外に救われる道がないのかがわかるようになる。聖書が教える救い、神様が与えようとしておられる救いを受けとるには、人の側が自身の罪の問題を正しく認識することが不可欠。しかし、この(神がわかるところから信じるところまでの)プロセスも神様のお働きが不可欠。十字架にかかられたイエス様は、悪いことをしていてもそれがわからない者たちのために祈ってくださった。だからこそ自分も、まことの神様を知り、罪とその結果を知り、そしてその解決を知り、イエス様を信じることで救いに与らせていただいた。今なお「何が問題かわからない」人が周りには沢山いる。”自分にとって得になるなら手段は選ばない”というような感覚の人もいる。”みんなやっているのだから”とか”誰にも知られないのだから”とか言って誤魔化そうとする人もいる。そのような社会にあって、真実を知らされた自分は、もっと世に遣わされた光として輝く存在でなければならないと思わされている。
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