埼玉と群馬でのみことばの奉仕に招いていただいた。
皆に祈られ神様の護りとお働きの中で、あらゆることが無事に終了した。
新たな場所、新たな出会い、新たな学びの中で、霊的な活力を与えられ、ハードな面はあったけれども、「霊的憩い」の時間であったように思う。
メインの奉仕者として、確かに「大事にされ」、「感謝され」た。しかし、一つ一つの働きは、陰の多くの前後の働きと祈りがあることを忘れてはならない。私という不十分な器を通して、聞き手が霊的祝福を受けたとすれば、それは聖霊による「調整の働き」がその都度あったということ。神様は、ご自分のみことばを祝福し、しばしば語り手(取り次ぎ手)の意図しないかたちで、真実を一人ひとりに届けられる。そのことに驚かされ主の御名をあがめさせられる。その事実は、「私が語ったこと」ではなく、神様がお語りになったことばがいのちあるものであることを覚えさせられる。みことばの真理を語らせていただくことは特権であり喜びであるが、語り手の準備(と実際のメッセージ)を超越したところで神様は御心を行ってくださることを体験できるのは素晴らしい。耳を傾けてくださる一人ひとりが置かれている状況をすべて把握することはできない。しかし全知の神様がそれぞれの霊的必要に応じて教えと適用を与えてくださる。「どう語るか」は毎回の課題ではあるが、聖霊の働きという前提があることを踏まえ、「みことばをそのまま語り続ければよい」という原点を忘れずにいたいと思っている。
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