最近起こった、キリスト教界では名の知れた牧師であり、著書が何冊もあるクリスチャンリーダーの「不祥事」の報は、一介の牧師として重いものを考えさせるものだった。立場が立場だけに、その与える影響はとてつもなく大きい。どんなに尊敬を受けるクリスチャンであれ、一人の、神の恵みによって救われた罪人に過ぎない。牧師であっても、聖人ではなく、なお罪と格闘する信仰者であることに違いはない。彼はすべての務めを辞めざるをえなくなった。でも今まで彼が語ってきたこと、著してきたことが、ウソだったかといえばそうではない。神様は確かに彼を豊かに用いられてきた。この「不祥事」をもってそれらがすべて否定されるべきだとは思わない。ただ、残念なことであり、”あってはならないことが起こってしまった”という思いは残る。悪魔は一番喜んでいる。影響力のある霊的リーダーを狙い撃ちにし、成功したのだから。彼と家族、教会、そして関係者のために祈るものでありたい。同時に使徒パウロのことばを肝に銘じたい。”自分は倒れないから大丈夫”などと決して思ってはいけないということ。牧師にも当然罪の誘惑はある。条件がそろえば同じことをしてしまう弱く罪深い者である。牧師だからこそ悪魔の恰好のターゲットとなる可能性は大きい。先日、按手礼式に出席した。15名の牧師たちが順に手を置き祝福を祈った。牧師の務めは人間的知恵とちからによって出来るものではないことを改めて確認した。神の恵みと祈りの支えがなければ、到底果たせない重責。祈られてきたがゆえの護り。そしてこれかも豊かに祈られる必要を思う。パウロが同じ箇所の続きで言っているように、罪の試練(誘惑)のための脱出の道は備えられているが、その道を自分が選ばなければ敗者となってしまう。人々を失望させ、神様を悲しませることがありませんように、とただただ神の憐れみと助けにすがるほかはない。
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