今年 神様に願うことの一つは「祈りのちからを体験する」である。
祈りの重要性については、長年教わりながらも、本腰を入れて取り組んでこなかったというのが正直なところ。
しかし、あらためて重要性を教えられた。それも、娘から。
昨年後半 彼女とは ある「プロジェクト」に取り組んだ。娘は先ず祈ってからそれに取り掛かった。その姿勢は私から学んだものではない。
私が妻と結婚する前、おそらく電話で最初に話をした時、(後に妻になる)彼女は、最後に「お祈りしよう」と言った。
彼女と知り合って最初に、彼女と彼女の家族を訪問した時のこと。駅で別れる時、構内で一目をはばかることなく家族皆が輪になって(私の帰途の護りなどを)祈った。なんか新鮮だった。
妻の家族は、祈りを「日常」のこと、としていたように思う。
それは「とりあえず祈らないと事を始められないから」祈るというのではなく、これから何かしようという場面において、「神様、あなたの恵み、あなたの護りなくして、私たちは何事もうまく運ぶことはできません」という、神への信頼の姿勢と表明であると思う。
これを妻が両親から学び、そして妻から娘へと受け継がれているとすればとても素晴らしい。
ある子供が、「神様がなぜいるとわかるか」という説明として、「僕のパパは毎日お話している」と言ったとか。
私たちは、聞くことができ応えることができるお方にお話ができる。そう信じるからこそまた続けて祈るのだと思う。
娘がずっと小さかった頃、お祈りをせずに発車しようとすると「パパ、お祈りしてないよ」と言われたことがあった。
今年は、自分に「祈ったか」といつも問いかける一年にしたいと思う。
「儀式的・形式的」なものではなく、まさに呼吸するように、神様に語りかけることが無意識の中でできる者でありたい。
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