※メッセージをお聴きになりたい方はこちら↓(音声のみです。再生中に、広告が入る場合があります。ご了承ください。投稿期間は約2カ月です。)
今回の箇所では、「長老たち」への勧めがされています。これを今の私たちに当てはめるならば、牧師たちへの勧めということになります。牧師ではない皆さんは、牧師のつもりで、或いは牧師の立場に身を置くことをイメージしつつ、牧師の働き(牧会)をする者に与えられている責任について学びましょう。
I. 牧会の勧め(1-2節前半)
ペテロから長老たちへの勧めがなされていますが、彼は自身がそのようにできる根拠を三つ挙げています。①同じ長老である。②キリスト様の苦難の証人である。③まもなく現わされる栄光にあずかる者である。
(教会を形成するクリスチャンを象徴する)羊を牧する命令は、ペテロもイエス様ご自身から与えられたものです。(ヨハネ21:16)“牧する”ことは、見守ることと関連しており、保護し、導き、手引きし、養うことを含みます。さらにそこには、同情し、助言し、叱責し、非難し、教え、懲らしめ、警告することが含まれます。ペテロはこのことを2節後半で“世話をする”ことと言い換えています。それは愛の伴うケアです。それは(自分のではなく)神様の(常に養い導く必要のある)羊に対する理にかなったアプローチです。
II. 牧会の手段(2節後半-3節)
牧師は神様から委ねられた群れをどのようにお世話すべきなのでしょうか。
①「自発的に」:牧師は、神様からの召命(呼びかけ)に応答して自らその務めを選び、果たしていきます。その責任の重さと神様への申し開きの責任ゆえ、人間的な選出によって就くことができる立場ではありません。(ヘブル13:17)神様は人の心中に働きかけ、快く神様の御心に従い、務めをまっとうするようにされるのです。
②「心をこめて」:牧会は興奮と情熱をもって行われるべきです。神様とその働きへの情熱が働きの動機であり、決して自身の利益のためであってはなりません。(テトス1:7)
③「模範」:牧師は権力をふるうことによってではなく、お手本を示すことによって教会のクリスチャンを導くべきです。(マタイ20:25-27)
III. 牧会の報い(4節)
教会のリーダーである牧師の究極の評価は牧者の長(チーフ)であられるイエス様がなさいます。(Iペテロ2:25)忠実な働きをした牧師には、永遠の栄光である冠が与えられます。冠には、“しおれない花”を意味することば(アマランサス)が使われ、主からの称賛の大きさを説明しています。(Iコリント9:25; IIテモ4:8; ヤコブ1:12; 黙示録2:10)その報いは、牧会の働きの中で経験する苦しみ、試練、涙に十分以上に報いるものとなります。
まとめ:牧師のために祈りましょう!
教会の牧師も神様に牧されている者の一人です。神様の“牧会的”お取り扱いのある中で、牧し、お世話をするクリスチャンたちを委ねられています。効果的な牧会のためには、牧師が霊的でなければなりません。聖霊に満たされ、成長し続け、良き主のしもべでなければなりません。牧師がどのような信仰者で、どのような働きをするかが、教会の歩みに大きく影響します。神様の御心にかなう牧会がなされないのであれば、教会に与えるダメージは大きいものとなります。牧師が神様の御心にかなう群れの世話ができるように、自発的に、心をこめて教会の群れを牧し、群れの模範となれるように祈ってください。イエス様の御名によって行われる牧会/お世話を、イエス様とみことばの権威を認めるがゆえに快く受け取ってください。牧会が祝されるなら、教会は祝されます。教会が祝されるなら、かしらであられるイエス様はほめたたえられます。