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天に国籍を持ちつつ、今しばらく地上に身を置くクリスチャンとして、どのように生きるか、どのように立派に振る舞い、神様に栄光を帰すべきかを学んでいます。鍵となるのはあらゆる人間関係において、従うということです。今回の箇所においては、特定の人間関係が取り上げられていますが、焦点を当てるべき点は、理不尽(不当)な扱いに対する反応です。道理に合わない取り扱い、受け入れがたい苦痛を経験する中においての従順について学びましょう。
① 理不尽な状況で従う命令(18節前半):新約聖書が書かれた当時の奴隷制度は、南北戦争前の米国のような酷さはなかったと言われています。身を立てるためにしばしば自ら(一定期間)奴隷になる者さえいたのです。ここでの「しもべたち」とは、(主人の家に住む)家で使われている奴隷のことです。主人とは近い関係性をもち、多くは高い教育を受け、家庭で責任ある位置にありました。彼らに対して「敬意を込めて」(直訳は“あらゆる恐れをもって”)従うように命じられていますが、敬意を示し、恐れる相手は主人ではなく神様です。とにかく従うということではなく、敬意と忠実さを醸し出す雰囲気が伴っていることを意味します。主人(例えば雇用主)に従う一番の理由は、神様を恐れるからです。私たちは神様に申し開きをする責任を負っているからです。権威をもっている存在に対して、単に待遇(給料など)に影響するからではなく、神様を恐れるゆえに従順を示すのです。クリスチャンの振る舞いはイエス様を証しすることにつながっていることを認識する必要があります。
② 理不尽な状況で従う意味(18節後半):「善良で優しい主人」に従うことは簡単です。しかし「意地悪な主人」に対しては普通は困難です。「意地悪な」とは、“曲がった”を意味し、側弯症(脊椎が湾曲する病)という語はこれから派生しています。心の曲がった、不正直で、厳しい主人(例えば上司)と関わるのは困難です。しかし神様は、横柄な主人に対しても敬意と従順で応答することが信仰者として相応しいと教えておられます。
③ 理不尽な状況で従う動機(19-21節前半):神様は、私たちが人間(上下)関係において苦しみを経験することを許されます。そしてそれに対して抵抗しない態度を神様はご覧になり報いてくださいます。私たちが理不尽な扱いの中で従順を示すのであれば、神様の前にあってそれは称賛に値し、立派なことなのです。それは神様がお認めになる質(徳)であり、キリスト様を示すことです。これこそ、神様が「忠実はしもべだ」とほめてくださる振る舞いです。私たちは、神様に対する良心ゆえに(神様を見上げ、神様の評価を気にするゆえに)そうするのです。それは自然ではできません。不当な仕打ちを耐え続けるためには御霊に満たされる必要があります。不当な取り扱いに対して忍耐を示すのであれば、それはクリスチャンとしての性質をもっている真の証拠です。そのようなクリスチャンは、神様の恵みを証しする信仰者です。
自身の怠慢や不手際への処罰は称賛されるはずがありませんが、善を行って酷く扱われるとしたら、それは神様が価値をお認めになることです。「耐え忍ぶ」とは、縮こまって受け身的に嵐が過ぎ去るのを待っているということではなく、荒れ狂っている強風にも関わらず前に進もうとする姿を言います。そのような人は状況に関係なく神様の御心を求め続けていきます。神様はその忍耐を、神様の御心に委ねる(自身の心地よさよりも神への献身を優先する)姿勢としてほめてくださるのです。
神様との関係を念頭に置きつつ、主人(従うべき相手)との関係を考えましょう。従順とそれに伴う祝福の約束に目を留めましょう。不当な苦しみにおける神様の目的を認識しましょう。
私たちクリスチャンは神様によって召された存在です。本来受ける必要のない、苦しみを耐え忍ぶ訓練にも召されたということです。
まとめ:クリスチャンは理不尽な状況において従順で応答する
神様は、私たちが(上に立つ者に対して)抗議することや、転職することを禁止しているわけではありません。敬意を払い、礼儀をもって抗議する必要がある場合もあるでしょう。御心を確信して転職を決断する必要がある場合もあるでしょう。しかし神様が現在の立場(位置)を御心とされているのであれば、従順の実践を望まれていることは確かなことです。
クリスチャンの多くは弱い立場に置かれています。しかしこの世界において弱く、認められないかもしれない者が、神様によって選ばれたのです。その事実は私たちが従順な振る舞いをすることを大いに励ますものです。世の中で誰かのもとで働く以上、信仰者である私たちが会社(或いはその他の事業)自体よりも大事にされることはおそらく少ないでしょう。しかし、そのような現実にあって、世の中の(リーダーの)理不尽さが正されること以上に、神様はその状況下にある私たちの従順に関心をもっておられるのです。神なき世界では、不平・不満・復讐心・反抗心、そして(この世の)正義が正当化されるかもしれませんが、神ある世界に生きる信仰者は、理不尽な中からでも恵み(良いもの)を映し出すことができる神様を知っているのです。