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“何事にもバランスが大事”と言われますが、神様のご性質である愛と正しさを理解することにおいてもそれは重要です。偽教師の問題に触れたペテロは、今回の箇所で神様のさばきの確かさについて語っています。偽教師たちの教えとその振る舞い(放縦・貪欲)はさばきに値するものです。神様は愛と憐れみに富んでおられるお方ですが、邪悪な偽教師をさばかないでおかれることはありません。ペテロは、過去における神様のさばきを紹介し、欺く者たちを、将来においても同じようにさばかれることの先例としました。
(エゼキエル33:11; IIテサロニケ1:8-9)
I. 過去におけるさばき(4~8節)
*さばかれた対象①(4節):先ず罪を犯した天使たちについて言われています。(ユダ6)ここでペテロが語っているさばき(についての一つの見方)は
創世記6:1-4に登場する堕落した天使たちのことです。ある堕落した天使たちには(悪霊のように)一定の自由があり、人を悩ますことが可能です。ペテロは、どのような罪を犯したかは明確にはしていません。しかしその罪ゆえに彼らは「地獄」に送られるのです。ペテロは神話に登場する(よみよりも深い穴で神々が罰を受けるとされる)言葉を用い、堕落した天使の行き先を説明しています。そこは悪霊たちが行くことを恐れている場所です。(ルカ8:31)彼らはそこで判決を待つ囚人のように囚われ、結果的には火の池に投げ入れられます。天使がさばかれるのであれば、罪を犯した人々は確かにさばかれることが強調されています。
*さばかれた対象②(5節):次はノアの時代の罪人たちのさばきです。ノアが“義の宣伝者”であったことの具体的な記述は旧約聖書にはありませんが、神様の御心にかなう歩みをし、言葉と行動によって当時の人々の罪を非難したことは想像できます。(創世記6:8-9; 7:1)結局ノアの家族八人以外は大洪水によって滅ぼされました。ノアの家族が保護されたことは、さばきについて語る中での、敬虔な者たちへの励ましと希望のメッセージです。
*さばかれた対象③(6節):最後にソドムとゴモラの町に住んでいた人々のさばきについてです。(創世記19:24)これらの地域は瀝青や塩、そして硫黄が豊富であったようですから、神様はさばきのために火山活動を用いられたのかもしれません。いずれにしても、これらの地域全体が灰で覆われ、すべての人が火と硫黄によって滅ぼされました。神様は明確な(邪悪さは、さばかれるという)メッセージを将来の世代に送られたのです。
II. 将来におけるさばき(9~10節前半)
ペテロは過去におけるさばきの例から、一般的なさばきと、特定のさばきについて語っています。神様は敬虔な者をどのように誘惑(試練)から助け出すかを知っておられるお方です。いつの時代の信仰者であれ、神様がすべての苦境・窮状を知っておられることの事実が慰めとなるのです。神様がお取りになるご計画のパターンは、邪悪な者へのさばきが降る前に敬虔な者を救うというものです。
神様は正しくない者への処罰の方法も知っておられます。神様のさばきは今も一時的なものとして存在します。この先には死やよみ(ハデス)での苦しみがあり(ルカ16:33)、最終的には白い御座の前でのさばきがあります。その時、すべての時代の、まことの神様を信じていない者が復活させられ、最終的なさばきがなされ火の池へと送られるのです。
神様の怒りは特に(ペテロの時代の)偽教師たちの上に臨むことは確かです。誤った教えを流布する彼らの肉を甘やかす生き方(性的放蕩)に対して、神様は罰をお与えになります。彼らには神様の権威を認めない罪もあります。偽教師たちは、表面的には主を認知しますが、主のご支配のもとで歩むことを拒絶するのです。彼らの特長は高慢さと肉欲です。
まとめ:神様は真実からの逸脱を容赦されない
神様は敬虔な者(信じて従う者)を救い、正しくない者(信じない者)を罰するお方です。人間は、自分にとって、“神様はこうであってほしい”というイメージはあると思います。しかし、自分の望み通りのことを何でもしてくれるのが愛と正しさに満ちた神様ではありません。(少なくとも聖書の神様はそのようなお方ではありません)神様は、(痛みが伴うとしても)最善をし、最善へと導かれるお方です。神様は信じる者にとって、父であられ、友であられますが、だからといって無礼であっていいわけではありませんし、神様が罪を何でも見過ごされるわけではありません。偽教師の罪深さは、積極的に他者を神様の祝福・救いから遠ざけることにあります。神様とみことばについての理解の間違いが、人の永遠を狂わせることになるのです。まことの信仰を与えられたクリスチャンは、みことばを正しく学び、真実にとどまって歩むことの重要性をあらためて覚えましょう。