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“真実は人を不快にするもの”と言われます。“これが真実です”と言うと、“心が狭い”とか“傲慢だ”とか“排他的だ”と非難されるのですが、真実が一つである以上、そのように言われる筋合いはありません。“2+2が4”以外ではないと教える教師は、心が狭いわけでも傲慢なわけでもありません。4が答えであるならば、必然的にそれ以外の答えは排除されます。真理とはそのようなものなのです。
今回は真実であられる神様について聖書から学びたいと思います。先ず神様の真実性に
ついて二つの意味を押さえておきましょう。
一つは、このお方が(偽りではなく)本物の神様であられると言う意味です。(Iテサロニケ1:9; Iヨハネ5:20) もう一つは神様のご性質に強調点が置かれて使われる意味です。この中には、嘘・偽りがまったくない正しいお方であること(申命記32:4; Iサムエル15:29; テトス1:2; ローマ3:4)、誠実なお方であること(民数記23:19; ヘブル6:18)、そして忠実なお方であること(IIテモテ2:13; IIコリント1:18-22)が含まれます。
I. 神は真実であられる
神様はそれぞれの位格において真実であられます。御子イエス様は、父なる神様が真実であられることを証しされ(ヨハネ7:28; 8:26; 17:3)、ご自分が真実であられると主張なさいました。(ヨハネ14:6) またイエス様は御霊なる神様が真理の源であられ、真理を伝達されるおかたであられることを証ししておられます。(ヨハネ14:17; 16:13)
II. 神は私たちに対して真実であられる
真実の豊かさ(出エジプト34:6; 詩篇36:5; 100:5; ヨハネ1:14):神様は真実に富んでおられます。
真実のみことば(詩篇119:86, 142, 160; ヨハネ17:17):神様のことばはすべて真実です。
真実による自由(ヨハネ8:32):私たちはまことの神様を知り、救いの真実を受け入れたことにより、“神様のために生きる”という真の自由を得ました。
真実による召し(Iコリント1:9):真実であられる神様のご計画とみわざにより、私たちは神様との交流が可能となりました。
真実によるさばき(詩篇19:9):私たちにはまことのさばきを執行されるお方がおられます。
真実による祝福(イザヤ65:16):まことの神様を知り、まことの神様との正しい関係に入った者は、やがて究極の祝福に与ります。
III. 神は罪深い私たちに対して真実であられる
理不尽な罪の試練に遭わせられない(Iコリント10:13):イエス様を信じて救われたクリスチャンであっても罪の性質をなお持っています。それゆえ、罪との闘い、罪の誘惑は現実のものです。しかし、神様はクリスチャンが対応できない、勝利できない罪の誘惑をおゆるしになることはありません。また誘惑とともに脱出の道を準備してくださいます。この約束は、神様が真実であられるがゆえのものです。(ですから、私たちは罪を犯すことに対して言い訳はできないということです。)
罪のゆるしときよめを与えられる(Iヨハネ1:9):残念ながら私たちクリスチャンも神様に対して罪を犯します。しかし、私たちがそれを神様の前に素直に認めて悔い改め、告白するなら、神様は私たちの罪をゆるしてくださりきよめてくださいます。このことはイエス様によって、すでになされた十字架刑による身代わりの死、救いのみわざに基づいてなされるお取り扱いです。そしてこのことは、神様が真実であられるがゆえの、ゆるしときよめの適用であるということです。
まとめ: クリスチャンは、まことなるお方、真実の源なるお方に導かれている
偽りが横行するこの世界にあって、人生において一番重要な永遠のことがらについての真実が与えられていることは、なんと幸いなことでしょう。日々の歩みにおいては当然のことながら逆境も経験するわけですが、そのような中にあっても、揺るぐことのない真実なる神様に信頼を置くことができることは感謝なことです。(詩篇119:75; Iペテロ4:19)
真実の神様をもっと知り、みことばの真実をもっと学び、神様に対する信仰と確信をもって歩もうではありませんか。まことなるお方の盤石な御手の中にある幸いを、もっと経験させていただこうではありませんか。