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今週はイエス様の十字架の御苦しみを特に覚える受難週です。聖書(神様)は惨たらしい十字架刑を詳細には記していませんが、そこには神様の意図があると思われます。ことばや映像によってはイエス様が背負われたものの大きさと重さを十分に表現すること、また知ることはできません。むしろ私たちは苦しみを通られたイエス様を深く黙想し、その意義を個人的に知り受け止めることが求められているのでしょう。今回はイエス様を信じる者たちに宣言された義認の結果について学びます。
神様との関係正常化
神様の前にあって、罰がゆるされること、神様の怒りから救われること、神様との交わりが回復すること、そして義が信じる者たちのものとして認められること、これらはすでに学んだ“義認に含まれる”ことでもありますが、同時に義認の結果でもあります。
義認についてパウロが引用しているダビデのことばから三つのことがわかります。(ローマ4:7-8)①(赦されるために必要となる)人の行いについては触れられていないこと。②神様が罪をお認めにならないなら、それは義の立場が与えられているということ。 ③不敬虔な者が義とみなされること。
神様は、罪のある人間にその責任を負わせるのではなく、イエス様の義を転嫁してくださいました。(IIコリント5:19)これにより“神様の怒りの対象”である事実が消滅し、和解が実現したのです。
(ローマ5:1,9; 8:1; Iテサロニケ1:10)
御国の相続
信仰により義と認められ、神様の子供となった者は、神様の相続人でありイエス様との共同相続人です。(テトス3:7)クリスチャンが受け継ぐと約束されているものは永遠にその価値を失うことがないものです。(ローマ8:17; Iペテロ1:4)そこには終わることのない神様との交わり、そしてイエス様のようになることが含まれています。これが信仰者の「望み」です。
栄化の保証
(栄化を含む)栄光についてパウロはすでに起こったこととして記し、それが確かであることを強調しています。(ローマ8:30)イエス様を信じたクリスチャンは、その事実をすでに受け取ったかのごとく確信できるのです。(クリスチャンがやがて経験する救いの完成の)栄化の約束は、今の生活における苦難から目を永遠へと移させます。(ローマ8:18)今の歩みにおいては喜びが一滴のように感じられるとしても、やがて“喜びの大海原”に飛び込むことができるのです。(IIコリント4:17; IIテモテ2:10)それは、クリスチャンが待ち望んでいる“義の完成”を確認する時であり(ガラテヤ5:5)、天の御国と永遠の天における栄光のうちに輝く存在とされる瞬間です。(マタイ13:43)
義の生き方
クリスチャンは、なお罪の性質を持ち、罪を犯すものではありますが、義を行う傾向にある生活へと変えられていくのも事実です。“完璧な義人”と言われるようなクリスチャンは存在しませんが、イエス様の義の性質に与っている者として相応しく生きることを神様はお求めになっておられます。
(ピリピ1:11; Iヨハネ3:7)
まとめ:義と認められたクリスチャンの受ける祝福は想像を遥かにこえるもの
私たちは神様の前にあって、とてつもない借金を背負いその返済のために薄汚い衣をまとって、働き続けなければならないような者でした。しかし借金が全部免除され、新しい衣(義の衣)を着させられ、神の食卓に連なる者とされたのです。イエスに様お仕えする者ではありますが、もはや、“こき使われる”というようなものではなく、また“借金返済”のためではなく、イエス様に対する喜びと感謝をもって働くことができる者とされたのです。
クリスチャンに約束されたことは空想ではなく現実であり、神様が宣言してくださった義認(救い)の有効期間は永遠です。天における祝福を先取りできるクリスチャンは地上における様々な悩みや試練を小さなことと見ることができ、義と認められた者に相応しく神様の義を追い求める生き方することが可能なのです。