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使徒パウロは1章18節から、ユダヤ人も異邦人も神様の前に有罪であり、すべての人が神様の義を必要としていることを述べてきていますが、今回の段落を含め、3章20節まででこの“告発”を締めくくります。
*例外なき罪深さ(9節)
この節の「私たち」が誰を指しているにせよ、神様の有罪宣告において、優位な位置にいるものはいないということです。すべての人は、罪によって完璧に縛られ支配されているのです。(ガラテヤ3:22)神様の前における人間の姿は皆同じです。共通する罪の問題ゆえに苦しみ、悲しみ、痛みを経験しており、皆が解決の必要を抱えています。
*“無い”罪深さ(10~12節, 17~18節)
10~17節では、旧約聖書の引用を用い、すべての人の性質、発言、ふるまいを告発し、人の罪と反抗が世界規模であることを示しています。
聖書に書かれていることは、永久かつ権威ある性質をもっています。各節で説明されている“無い”ことの罪を、神様の基準、そして神様との関係を念頭に見ていきます。
① 神の基準を前にして、神の義の標準を満たす者は存在しない(10節)
「義人」とは、神様の基準を満たしている人のことですが、そのような人は一人も存在しません。世界の人類は邪悪な存在であり、この事実ゆえに、神様との間で、また他人との間で問題を作り最悪の結果へと導いていくのです。あなたもまず「義人」ではない現実を認めることが大切です。
② その現実の深刻さを理解する者がいない(11節前半)
人は神様の真実を理解できず、神様の義の標準を呑み込むことができません。それは霊的に無知であるということです。それは(既に学んだように)示されても受け入れることを拒んだからです。無知は神様との関係における腐敗と反抗の表現です。(エペソ4:18)
③ 深刻な状態の中で神を求める者がいない(11節後半)
②のことが事実であればこれは必然的な結果です。罪の問題を認識しなければ、解決の必要も覚えないのです。つまり、“神は必要ない”という生き方になるということです。唯一の希望は、神様が罪人を求めてくださるということです。(ヨハネ6:37,44)聖霊なる神様の働きにより、人は神様を求めることが可能となるのです。
④ 神から離れ無用な者に(12節)
人は(神様ではなく)間違った方向に傾き、神様に背を向けます。人には神様の道を去り、自身の道を追及する傾向があるのです。その結果、人は霊的に“ダメになり、腐ってしまう”のです。それでは、神様がお認めになる良いことができるはずがありません。人は救いを求めないので、救われません。それゆえ神様のお役に立つ人生を送ることもないのです。
⑤ 平和が存在しない(17節)
これは(内面の平和の感覚の欠如ではなく)他人との関係における争いと対立の傾向について言っています。
⑥ 神への畏敬がない(18節)
人の真の霊的状態は、神様に対する相応しい従順と畏敬の念の欠如において、明確に表されています。聖書が教える神への恐れとは、①偉大さと栄光に対する畏怖、そして②神の性質・聖さに対する冒涜や罪を犯した場合の当然の結果に対する深い畏怖です。神様を知らなければ、神様を認めることはできません。神様を認めなければ、神様を畏れ敬う歩みをすることはないのです。できるのは、自分勝手に、かつ傲慢さをもって歩み続けることです。ここに、神様が視野に入っていない人生の危うさと邪悪さと悲劇があります。今の時代は権威を恐れ、権威に従うことをしません。神様を畏れない歩みは、人を無秩序へと導きます。そしてそれは人にとって不幸なことです。
*“有る”罪深さ(13~16節)
① 発言における有毒性(13~14節)
封印がない墓は、通り過ぎる者が見ることになり、臭いを嗅ぐことになります。これは、開いた口から出る汚いことば、心の腐敗をさらけ出している様子を説明しています。「まむしの毒」は、人の中に、良いものが存在しないだけでなく、有害なものを持っていることを説明しています。他の人を建て上げ、励ますのではなく、引きずりおろし、辱めることばを浴びせるのです。
「呪い」は、他人について最悪を願い、公に辛辣で嘲るような言葉遣いをもって表現することです。「苦み」は、敵対する者への、公のそして明確なかたちでの感情的な敵意を説明しています。
② 行動における暴力性(15~16節)
罪を持った人間は、接触する者すべてを傷つけ破壊し、傷跡と苦しみを残します。彼が歩んだところには、破滅と悲惨という道ができるのです。
まとめ:神が与える救いへの第一歩は罪の下にあることを認めること
神様の前において、人間は皆完全に堕落しています。罪が全人類に悪影響を及ぼし、罪が人のすべての部分をダメにしているのです。しかしイエス様はこの解決のすべてとなられました。罪の下(もと)にあったものが、赦されて、恵みの下(もと)に移されたのです。義人ではない私たちは、イエス様の尊いみわざゆえに、救いの恵みを受け取る該当者とされたのです。