今週は受難週です。イエス様のお受けになった苦しみを特に覚える時です。聖書では、この週が、イエス様がエルサレムに入城された日曜日から始まります。ヨハネの福音書では12章にその記事があります。この福音書はイエス様の地上におけるご生涯の最後の一週間に、書の全体の約半分を費やしていることになことがらに着目したいと思います。(ヨハネの福音書19:17~22)
I. 十字架を背負われたイエス様(17節)
イエス様は、不当な裁判によって十字架刑が確定し、刑場へと連れていかれました。イエス様はご自分がはりつけにされる十字架(おそらく横木のみ)を背負い「どくろの地」と呼ばれる場所に向かわれました。
十字架を背負われるイエス様の姿に、私たちの罪を背負われたイエス様の姿を見ることができます。罪のある私たちは、罪と罪の結果を負い続け、死後永遠にわたってその償いをするはずでありましたが、イエス様が代わってそれらをすべて背負ってくださったのです。(イザヤ53:4, 6, 12; マタイ8:19; ヘブル9:28; Iペテロ2:24)
II. 犯罪者とされたイエス様(18節)
イエス様が十字架につけられた時、同時に(おそらくバラバと同じように強盗を犯した)二人の者が十字架につけられました。イエス様は真ん中につけられました。福音書に十字架刑の詳細が記されていないのは、イエス様の十字架の意義を伝えることがより重要であるからと思われます。
イエス様は犯罪人と同列に置かれました。罪のないお方、罪を知らないお方が、「のろわれたもの」という取り扱いを受けたのです。本当は私たちがその取り扱いを受けるはずでした。私たちはそのことさえ知りませんでした。自分の罪が、イエス様に対してそのような不当な矛盾に満ちたことを引き起こしたことを知らなかったのです。
III. “無罪宣告された”イエス様(19~22節)
十字架につけられたイエス様の頭上には「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」と三つの言語で書かれていました。これは罪状にはなりえません。それゆえ祭司長たちは、イエス様がそのように「自称した」と書くようにと求めましたが、総督ピラトは拒絶しました。彼は、ユダヤ人たちがイエス様に対するねたみゆえにイエス様を訴えたことを知っていました。それゆえ彼はイエス様には罪がないことを繰り返し言っています。それでも宗教指導者たちと群衆に押し切られて十字架刑にせざるをえなくなったピラトは、ユダヤ人に対して自らの頑固さと侮辱を示したのです。
この罪状書きは真実です。ある意味においてイエス様の無罪がここで宣言されているのです。イエス様の十字架刑に立ち会った百人隊長は、イエス様がこのような刑に処せられるようなお方ではなく「正しい方であった」と言っています。私たちは、このむごたらしい十字架にかかられたお方には何の罪もないことを知る者たちとされました。そればかりか、イエス様が罪のある私たちのために死なれたのであることを知る者とされたのです。(マタイ27:18, 23-24; ヨハネ18:38; 19:4, 6; ルカ23:47; Iヨハネ3:5)
まとめ:罪のないイエス様の死により、私は神の前に立つことができる
今回引用した聖句を見ていく時に、イエス様の受けられた苦しみは、私たちの身代りであり、私たちのためであることがわかります。(イザヤ53:5, 12; IIコリント5:21; ガラテヤ3:13) 罪人の罪がイエス様によって処理され、神様の前に義と認められるようになりました。クリスチャンはイエス様にあって聖徒の立場を与えられているのです。イエス様は到底“ありえない”方法でもって、私たちに“ありえない”祝福を与えてくださいました。罪のゆるしと永遠のいのちをくださいました。この素晴らしい救いを実現してくださったイエス様に対する感謝を、そして賛美を、日々の歩みの中で豊かなものとしていこうではありませんか。