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罪とは、神様との関係においてに認識され理解されるべきものです。今回は「罪責」について考えます。罪責とは、当然受けるべき罰、または神様を満足させるべき義務のことです。罪のある人間は、罪に対して怒られる神様に対して責任を負っているのです。(ローマ1:18)
罪責の程度には相違があります。旧約の時代には、違犯の種類によって異なる犠牲が要求されました。(レビ4-7章)新約聖書のいくつかの箇所でも罪責には違いがあることを教えています。(ルカ12:47-48; ヨハネ19:11; ローマ2:6; ヘブル2:2-3; 10:28-29)
I. 生来の罪と実行する罪
生来の罪(先天的な罪)を持っているという事実と、罪を実行する(個人的違背の罪を犯す)のをゆるすのとでは、罪責に違いが生じます。幼児は(当然罪の性質を持っていますが)相対的に言って罪がありません。(マタイ19:14; エレミヤ19:4)しかし、生まれながらの堕落に加えた罪の実践(個人的違背)があるところには、より重い責任が負わされることになります。(マタイ23:32)
II. 無知の罪と知っていての罪
罪責は、各個人がもっている知識の量にしたがって定められるものでもあります。知識が深ければ深いほど、とが(罪)も増すのです。警告がなくて厳格にさばかれた人々がいるのであれば、(聖書の)みことばを聞きながら拒絶した人々がより重く処罰されるのは当然です。(マタイ10:15)
まことの神様を信じないがゆえの振る舞いがどの程度意図的であるかによっても罰の重さは変わってきます。(知るという)特権を得ているのであれば、その責任はより大きいものとなります。(ルカ12:47-48)
イエス様を十字架につけた人々は、自らの邪悪さ、そしてイエス様が救い主であることを知らず、真理の光に対して目の見えない状態でした。(Iコリント2:8)その事実が赦しに値するということにはなりません。むしろ「霊的に目が見えない」こと自体が罪責の証拠となります。しかしイエス様の、十字架上の彼らのための祈りは、神様の恵みによる無限の憐れみの表現です。(ルカ23:34)
ある人々は、無知ゆえではなく、知っていて露骨な犯行に及びます。悪であり罰に値することを知っていながら、なおその振る舞いを正当化しようとするのです。(ローマ1:32)
人は与えられた光(知識)の程度に応じてさばかれます。(ローマ2:12)
使徒パウロは背教的ユダヤ人でもなく、主の教えを理解した上で主を拒んでいた人でもありませんでした。救いを獲得しようと熱心な、そして潔癖なユダヤ人であった彼は無知ゆえの罪を犯していたのです。(Iテモテ1:13)
III. 弱さからくる罪と ことさらの罪
どのような意志で事に及ぶかによっても罪責が変わってきます。ダビデはことさらの罪から守られるように祈っています。(詩篇19:13)この罪は、意図的にその罪に身を任せ、罪にふける状態です。(イザヤ5:18)一方、イエス様を三度までも否認したペテロの罪は、彼の弱さから生じたものです。
IV. 未完成の罪と最後まで頑固な罪
人が頑なに、何度も差し出される神様の恵みを受け入れなくなる、その度合いが、罪責の程度を決定します。最後まで頑なに押し通す罪は、聖霊(神様)に逆らう罪であって、決してゆるされません。(マタイ12:31-32)パリサイ人たちは、イエス様ご自身、そしてその教えが神様からのものと知っていながら、意図的に拒絶しました。彼らは素直に受け入れる代わりに、イエス様のしていることがサタン(悪霊)からのものだと主張したのです。(マルコ3:29)弟子でありながらイエス様を裏切ったユダも、十分な知識がありながら、信仰が欠けており、(神様とその教えに背を向ける)背教者となった一人です。(ヘブル10:26)
まとめ:罰を受けるべき者が赦された!
罪の深さ、そして罪責の程度には違いがありますが、聖なる神様の前にあっては、皆罰を受けるに値する存在です。罪責から逃れられる人は一人もいません。しかし、この問題を解決できるお方が一人おられます。このお方は私たちの罪の問題を、一度で完璧に処理されたお方です。このお方には罪がなく、罪との関係がまったくありません。それゆえこのお方には罪責はまったくありません。にもかかわらずイエス様は、私たちが当然受けるべき罰を代わりに受けられ、聖であられ、義であられる神様の要求を満たしてくださいました。イエス様は身代わりとして死なれ、葬られ、よみがえられました。このお方を、自分の救い主として信じる人に、赦しと新しいいのち(永遠に神様と交流できるいのち)が与えられるのです。
(ローマ8:1)