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今まで24回にわたり、「聖書の神は救いを用意された」という大きなテーマで学んできました。これは聖書が示す救いの準備の部分です。今回からは(準備を前提として)神様が与えてくださる救いの適用について学んでいきます。今回は選びについて学びます。聖書が教える選びとは、神様が(人の絶望的状況を認知されるゆえ)ある人々が救いの受取人となるようお選びになる行為のことです。選びについて4つのポイントを学びましょう。
I. 神の主権的みわざ
選びは神様がされることです。しかし、神様には、人を救いに選ばなければならない義務があるわけではありません。なぜなら、人は罪のために神様の前にまったく立場を失っているからです。また、イエス様は肉体を取られ死なれましたが、その救いの準備の後においても、救いの適用の義務を負ってはいません。選びは、人の側の求めやその他のいかなる存在の圧力の結果ではまったくないのです。神様がそうされるので、人は選びの祝福に与るのです。(ヨハネ6:44)
II. 神の恵みのみわざ
神様がされる選びは、まったく救いを受けるに相応しくない者が対象です。(ローマ11:5-6)人には救いに選ばれる功績がありませんが、イエス様の功績に基づいて実現したのです。
III. 神の予知を伴うみわざ
神様は全知であられますから、当然選びにおいて、イエス様を受け入れる人を知っておられます。(ローマ8:29-30)(この「知って」は“親密に知る”ことであると解釈し、“あらかじめ愛した人を救いに予定した”という理解の仕方もあります。)神様はご自分の予知を伴って人を救いに選び、聖霊によって聖別し、招き、救ってくださいます。(Iペテロ1:1-2)神様は、あらかじめ“知っておられる”人の中にイエス様に対する信仰を生み出させるのです。
「選ばれた」人とは、呼び出された者たちのことです。イスラエルの民は「地の面のあらゆる民の中から」選ばれました。(申命記7:6)新約のクリスチャンは「神に選ばれた者たち」(ローマ8:33; コロサイ3:12; IIテモテ2:10)と呼ばれています。さらに、患難期に信じる「選ばれた者たち」(マタイ24:22,24)もいます。
何が神様の選びを決定するのかについて、聖書は明確にはしていません。一方で、人が(神様の)準備された救いを拒むことへの責任は免れることはできません。それゆえ、人間の応答が神様の選びの基礎であるように思われます。しかしこの応答する機能も神様によって整えられなければなりません。なぜなら人は、とがと罪によって死んでおり、自らの救いのためにできることは何もないからです。
IV. 神の予定によるみわざ
パウロはいくつかの箇所で、選びについては神様があらかじめ定めておられたことを述べています。(ローマ8:29-30; エペソ1:5,11)
これらのみことばは、神様のご意志が確実に実行に移されること、そしてそれにより神様があらかじめ定めたことが実際に起こることを説明しています。これを救いに適用するならば、神様は選びによって、信じる人を救うことを決め、予定によって、その目的を確実に遂行することを定められたと言えます(使徒13:48)
神様の介入なしには誰一人神様(イエス様)のもとに来ることはできません。(ヨハネ6:37; 17:6)救いの選びは、人の願望や骨折りの結果ではなく、神様のご意志の中で始まることなのです。(ローマ9:15-16)
まとめ:選びの事実は、神に対する謙虚さと畏敬を抱かせる
神様が人を救いに選ばれることについて理解しようとする時には、少なくとも二つのことを前提としなければなりません。先ずこのことが、正しい完全な神様によってなされることであるという事実です。また、私たちの中には誰一人救われるに値する者は存在しないという事実です。
選びについて学ぶ時に、理解が難しく混乱する可能性がありますが、以下の事柄は確かです。
①神様は誰が救われるかを知っておられる。
②イエス様はすべての人のために死なれた。
③神様はすべての人に福音を伝えるように命令しておられる。
④神様のなさることには一つの矛盾も不公平も不正も存在しない
自らが神様の選びの対象であったことの事実を想う時、クリスチャンは神様に対して謙虚さと畏敬を抱く者となることができます。