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悔改めは、自分の心を変えることであり、この変化には、先ず知的(理解の)変化が含まれることを学びました。今回は、感情的(気持ちの面における)変化について学びましょう。
I. 感情の変化:その意味
悔改めにおける感情の変化とは、罪を悲しみ、ゆるしを願う気持ちを持つことを意味します。(詩篇51:1-2)ダビデは、バテ・シェバとの関係における罪を認識しました。彼は、貪り、盗み、偽り、姦淫をし、そして殺人を犯したのです。彼は、自分の罪深さとその汚れを悲しみました。そして神様に対してゆるしを求めたのです。
II. 感情の変化:その前提
罪に関して感情が変えられるためには、知的変化が必要です。真実を知ることでこの変化の状況が整うのです。罪を犯したダビデは預言者ナタンの指摘を受けました。(IIサムエル12章)ナタンの語るたとえ話に登場した男は、裕福であったにも関わらず、貧しい者から子羊を取り上げました。ダビデは、そのような男は厳罰に処すべきであると言いました。ナタンはダビデに対して、“実はあなたがそのようなことを行ったのです”と伝えられたのです。彼は自分の行ったことについて(知らずして)断罪したのです。自分のしたことの罪深さを知ることにより、その罪を悲しみ、神様に対してゆるしを願う気持ちを持つに至りました。
人は聖書が言うところの罪を理解していません。(ルカ23:34)それゆえ自分が神様の前においては罰の対象であり、そこへ向かって歩いていることも知らないでいるのです。そうであれば感情的変化が起こるはずはありません。
人がもし(罪についての)真実を知るならば、今までの歩みを振り返り、自分の間違い、犯したことの重みに気付き始めます。そして自分の言動や心の有り様について、関係する相手に対して申し訳なく思い始めるのです。一方で、真実を知らされても、それを受け入れない、個人的には適用しない、或いは自分自身を正当化するということも多いのです。
聖書からイエス様の十字架の意味を知らされても、それを信じなければ、感情的変化は一向に起こらないのです。しかし十字架の意味を知らされてそれを受け入れるのであれば、自身の(神様の前における)罪の重大さを知り、神様への感情的変化が起こります。自分の罪のせいでイエス様が十字架にかからなければならなかったことへの、申し訳ないという思いと、自分を救うために十字架にかかってくださったことへの、ありがたいという思いが同時に沸き起こるのです。
III. 感情の変化:その結果
罪を悲しみ、ゆるしを願う気持ちは人を悔い改めへと導きます。(IIコリント7:9-10)この悲しみさえ神様が与えてくださるものです。悔い改めは、(神様が与えてくださる)救いの中心であり救いの証拠です。どのように罪深くても、ひとたび思い直して、(自分の罪のために身代わりとなられた)イエス様を信じるならば、救いはその人のものとなるのです。(マタイ21:29,32)
まとめ:自分の罪を悲しみ、ゆるしを願う者を神様はお救いくださる
神様のことばは容赦なく人の心に罪の現実を突きつけます。それに対して反論できる人、また言い逃れできる人は一人もいません。神様の前における罪が自分、周囲の人々、そしてこの世界を不幸にすることが真実であるならば、その現実を認めることが人に与えられた唯一の正しい選択です。人が、罪を認めることは、罪を悲しみ、また罪ゆえに神様に対してもたらすことになった痛み、苦しみ、悲しみについてゆるしを乞うことへとつながるのです。神様は、“どのように罰しようか”と待ち構えておられるお方ではなく、私たちを幸福へ招き入れようとして、立ち返ることを待っておられるお方なのです。(詩篇51:17)神様は、人が悔い改めることによって(そして救われることによって)、ご自分との正しい関係を回復することに深い関心を持っておられるのです。