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回心には悔い改めと信仰が含まれます。これらはコインの表裏でどちらが欠けても回心(救い)は成り立ちません。聖書は、人が救われるのは(イエス様を)信じることによってのみであり、人の行いによってではないと教えます。しかしある人は、“悔い改めは人の行いだ”と言い、それゆえ“救われるために悔い改めは必要ない”というのです。では罪を悔改めないで救われることはできるのでしょうか。また、悔改めないで信じることはできるのでしょうか。“悔い改めなしの救い”などというものが存在するのでしょうか。罪が問題で、人は地獄へ行かなければならない、そして天国に行くことができないのに、罪を悔い改めないで永遠の罰を免れ天国へ行けるのでしょうか。そのようなことは決してありません。本当の悔い改めは、信じることなしでは起こらないのです。罪に背を向けること(悔い改め)と、神の方に向かうこと(信じること)は同時に起こるのです。これら二つは、救われるために必要な人の側の行いなのではなく、救いのために必要なすべてを備えられた神様への応答なのです。
さて今回は、人はどのようにして悔い改めに至るのか、ということについて学びたいと思います。
I. 神様がそうしてくださることによって(賜物)
罪のある人間が悔い改めることができるとすれば、それは神様がそれを可能としてくださったということです。言い換えれば、悔い改めは神様からの贈り物です。(使徒5:31; 11:18; IIテモテ2:25)すべての真の悔い改めは、神様の主権的恵みによって生み出されるものです。神様は赦そうと待っておられます。人が悔い改めに至らないとしたら、それは人の側が、自分が間違っていることを認めたがらないからなのです。
II. 神様が様々な方法で働いてくださることによって
人は奇蹟や不思議な現象を見れば悔い改めると考える人がいるかもしれません。ある人はそれらによって悔い改めるかもしれませんが、それらは悔い改める決定的な手段/要因とはなりません。奇蹟を行われたイエス様を見た人々の反応がそれを証明しています。(マタイ11:20; ルカ16:30-31)
みことば/宣教:神様(聖書)のことばは人を悔い改めへと導きます。また神様がお使いになる人をとおして語られた神様のことばによっても人は悔い改めに至ります。(ルカ16:31; 24:47; マタイ12:41; IIテモテ2:25)神様のことばが人の心を貫く時、神様の前に正しい選択をし、行動することが促されるのです。(使徒2:37-38)その時人は、神様の側に立って(神様の視点で)自分をさばく(否定する)ようになるのです。ヨブは、神様のことばによって神様を深く知ることになりました。そして彼は必然的に悔い改めへと導かれたのです。
(ヨブ42:5-6)
神様の愛:聖であられ義であられる神様は、赦すことを好まれるお方でもあられます。それゆえに、人は悔い改めることができるのです。(ローマ2:4)罪人が(一人として)そのままで滅びることを望んでおられないために、さばきを先延ばしにし、忍耐をもって人が悔い改めることを待っておられるのです。
(IIペテロ3:9)
神様の懲らしめ(黙示録3:19; ヘブル12:10):これらの聖句はクリスチャンについて語られているものですが、神様は様々な苦難を与えることによってクリスチャンでない人を悔い改め(そして救い)へと導かれることも事実です。ある人々は、自分ではどうすることもできない経験の中で、神様の前に悔い改め赦しを乞うようになるのです。苦難に遭うことで悔い改めに導かれ永遠の救いを手にすることができるのであれば、“神様がその経験を与えてくださって本当によかった”と言えるようになるのです。
まとめ:悔い改めの恵みを感謝しつつ、悔い改めのメッセージを伝える者となろう
クリスチャンは、まことの神様がわかるようにしていただき、罪がわかるようにしていただきました。そのことを感謝しましょう。また罪の結果がどのようなものであるかがわかるようにしていただき、同時にその結果を受けなくてもよいようにしていただいたことを感謝しましょう。神様の前に罪を認め、罪を悲しみ、赦しを乞う謙虚さが与えられたことを感謝しましょう。そのようにして赦され救われていることを覚える時、クリスチャンの歩みは謙虚で感謝に満ちたものとなります。神様の前に悔い改めに導かれた者として、悔い改めのメッセージを人々に届ける存在になりましょう。