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何らかの罪で服役した人は刑期を終えれば自由の身になりますが、その人を社会が受け入れられるかという課題が残ります。神様との関係においても罪の問題が処理されるだけでは十分ではありません。積極的な(プラスの)要素が必要となります。神様が私たち罪をもった人間のために準備してくださった救いの義認の側面には、罪(罰)がゆるされることに加えて、交わりの回復と義の認与が含まれます。
義認:交わりの回復
人は罪の結果として罰を身に招いただけでなく、神様の愛顧(神様との交流)を失ってしまいました。それは、人が神様にとっては怒りの対象であるということです。(ヨハネ3:36)神様の怒りは、義なるお方としての罪に対する当然の反応です。(ローマ1:18)まことの神様への敬意・献身・礼拝が欠如している人間は、神様のご性質と律法に対して、思い・ことば・行動において従おうとしない(合わせようとしない)のです。自身の良心・被造物の存在・神様のことばからの証拠があり、それに対して反駁(反論)できないにもかかわらず、自分の罪を手放そうとせず、神様の真理に抵抗し反対し続けるのです。
そのような者たちのためにイエス様は十字架の苦しみを受けられ、義認が実現したのです。(ローマ5:9)イエス様が神の怒りをすべて背負われたので、このお方を信じた者への怒りは残っていないのです。神様の怒りとの、どのような接触からも(永遠に)解放されているのです。神様の怒りはもはや消滅し、神様の子供としての交流を経験しているのです。(ガラテヤ3:26)
義認:義の認与
神様の律法は、人に対してそれを破らないだけでなく、積極的に従うことを要求します。同様に、神様との関係正常化のためには、罪のゆるしとともに、積極的な正しさが必要となるのです。そしてこの必要は、イエス様の義が信じる人に認与されることで満たされるのです。
神様は転嫁の原則を用いられました。(IIコリント5:21)神様は御子イエス様を罪人であるかのごとく扱われ、罪人が当然すべき罰の支払いを身代わりにされたのです。イエス様が人の罪を背負われたことにより、信じる者が神の義を背負うことができるようになりました。
この義は、信じる者のために備えられたものです。神様はイエス様の義を認与することにより、愛顧(交わり)を回復されます。このようにして与えられた神の義という“礼服”を着用して天の御国の祝福に入れていただけるのです。(マタイ22:11-12)
まとめ:イエス様によって神様との交わりと神の義が与えられている
罪のある人間は、神様の前に赦されるのみならず、受け入れられることを必要としています。神様の義認の宣言は、信じて救われた者が神様に愛されており(愛顧の対象であり)、親しく交流することができることを明確にしているのです。クリスチャンは、イエス様によって神様の義を転嫁していただきました。それは、神様の義が“自分のものである”と主張できる立場をいただいたということです。