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「人は死んだら神になる」と信じている人もいるでしょう。しかし聖書は、「神が人となられた」と教えています。神様が神様(霊の存在)のままであるならば、人は一向に神様を知ることも理解することもできません。しかし、神様が人となられた(肉体を取られた)ことで、人は神様を知ることができるようになりました。そればかりか、人は神様の愛を知ることができるようになったのです。神様の愛は、人となられたお方が死ぬことによって鮮明にあらわされました。聖書の救いを語る時に、イエス様の死は重要なポイントです。なぜなら、イエス様の死は、イエス様が人となられたことの主要な目的であるからです。
I. イエス様はこの世界に来られた
イエス様が来てくださった事実は、神様の側に目的と計画があることを説明しています。この「来た」という表現の中に、「神が人となる」という驚くべき真実が示されています。これは神様主導で起こったことでもあります。人の側が求めたわけでもなく、人の側にこのお方を受け入れる用意があったということでもありません。人の状態に関係なく、神様は人に歩み寄ってくださったのです。
II. イエス様は罪人を救うためにこの世界に来られた
イエス様がこの世界に来られた目的は、ご自分のいのちを差し出すことです。いのちは、人にとって一番大事なものです。一つしかないいのちは、その人のすべてです。イエス様のいのちは、人のいのちとは違って、罪がまったくない神の御子のいのちです。それゆえ、このお方のいのちによってもたらされる祝福は無限大です。
イエス様のいのちは「あがないの代価」として差し出されました。あがないとは、買い戻すことを意味します。人は神様に造られた存在で神様のもとにいて幸福だったのですが、神様のところから飛び出し、迷子になってしまいました。本来自分のものであるものが何らの理由で紛失し、ネットオークションに出品されてしまうようなものです。(モノには意志がありませんが、人は自分の意思で神様から離れたのです。)
イエス様はそんな私たちをあがなってくださいました。あがないの代価としてご自分のいのちを支払い、買い戻しの手続きをされたのです。イエス様は血を流し死ぬことにより支払いをされました。これにより、罪に対して怒られ正しさをもって臨まれる父なる神様の要求を満足されたのです。イエス様による「買戻しの完了」により、このことを個人的に信じ受け入れる人に、あがない(救い)が適用されるのです。
III. イエス様は奉仕者としてこの世界に来られた
イエス様は神様であられますから、奉仕を受ける側でありますが、実際のところはしもべとしてお仕えになられたのです。(ヨハネ13:14)「王の王、主の主」(黙示録19:16)であられるお方が、その特権を放棄され、この世界に来られたのです。イエス様の奉仕は、少しばかり手を差し伸べる、お手伝いをするというのではなく、すべてを差し出すレベルのものです。私たち人間は、救いのために何一つできません。人には善意があったとしても、できる奉仕には限界があります。しかしイエス様は、罪人がゆるされ救われるためにすべてを投げ出し仕えてくださったのです。(Iコリント1:30; Iヨハネ4:10)人間と神様との間に立ちはだかる罪の問題を、十字架における身代わりの死によって解決するご奉仕を遂行するため、イエス様は人となられこの世界に来られたのです。
まとめ:イエス様はあなたの身代わりに死ぬために人となられた
神であられるイエス様は人となってこの世界に来られました。イエス様は、地上での歩みの中で人々に模範を示し、教えをなさいました。しかし、それはイエス様がこの世界に来られた第一の目的ではありませんでした。イエス様が肉体をお取りになったこと(受肉)は、それ自体が目的なのではなく、目的を達成するための手段だったのです。その目的とはご自分の死を通して罪のある人間を救うことです。
イエス様の受肉の意味を知るなら、そのことを祝うクリスマスが個人的に意義深いものとなるはずです。イエス様ご自身が究極の贈り物であることを知り、祝うことの意義、そして祝う対象が明確になるからです。
イエス様は、あなたのゆるしのため、回復のため、そしてあなたを生かし、永遠の幸い・祝福に招き入れるためにこの世界に来てくださいました。イエス様を信じたクリスチャンは、イエス様の身代わりの死の上に立たせられ生かされているのです。