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人が持つ罪の性質の中で、高慢さ・傲慢さ・プライドはほとんどの社会の問題を作り出していると言えます。わがまま・自己中心・反抗、そしていじめ・詐欺・殺人・戦争、それらの多くはプライドから生じているのです。救いをいただいたクリスチャンもなおこの罪と日々闘っています。今回は謙虚さの重要さと祝福について学びたいと思います。
I. 謙遜の伴う従順:その命令(5節前半)
クリスチャンは教会の霊的リーダーである牧師に従い、神様に立てられた者として、そのリーダーシップに敬意を払う必要があります。聖書は、服従は霊的成熟の基本姿勢であることを教えています。(Iテサロニケ5:12-13; ヘブル13:17)リーダーへの服従が欠けると教会の働きが困難になるのみならず、神様からの恵みを失うことになります。謙遜を身に着けるとは、(かつて奴隷がエプロンをして主人に仕えたように)謙遜を自身に堅く縛り付けて接するということです。(ヨハネ13:4-17; Iペテロ3:8; ピリピ2:3; ヤコブ4:10)
II. 謙遜の伴う従順:その動機(5節後半~6節)
神様はプライドを憎まれ、謙遜を愛しておられます。そのお方の力強い御手は、常に主権者としての目的を果たされることを覚えなければなりません。(出エジプト3:20; 申命記9:26)神様を敵に回すようなことは決してしてはいけないのです。神様が私たちを試練に遭わせることがあったとしてもです。神様がクリスチャンに謙遜を学ばせようと取り扱われる時に、もし我慢できないとしたら、それは従順と謙遜が欠如していることの証拠です。クリスチャンは試練の中でもへりくだることが勧められており、神様はご自分がお定めになった時に、恵みをもって臨んでくださいます。
(箴言3:34; ヤコブ4:6; ルカ14:11; 18:14)
III. 謙遜の伴う従順:その実践(7節)
人は思い煩う時、希望と恐れにそれぞれ引っ張られることになります。そのすべてを神様の“上に投げる”ようにと命令されています。それは人の側の断固とした行動を必要とします。この堕落した世界で敬虔に生きようとするクリスチャンは様々な負の経験をしますが、そのすべてを神様に委ねるのです。自分の人生において何を必要としているかをすべて知っておられ、取り扱われるお方に信頼するのです。神様への信頼は(服従と謙遜に加え)勝利ある歩みのために必要な態度です。それは意図的な行動であり、祈りをもって行われ、従順を示すものです。神様は信仰者の試練に無関心ではおられません。イエス様が肉体を取ってこの世界に来られたのは、神様が人に寄り添っておられケアされるお方であることの証明です。天の父なる神様は、ご自分の子供たちを心から心配しておられます。(マタイ10:31; 6:25; ピリピ4:6; 詩篇37:5; 55:22)
人が他人の心配をしても益にはならないかもしれませんが、神様は必要な時に必要なことを必要なかたちで実行してくださるお方です。
まとめ:謙虚さは祝福を呼びよせる
神様は謙遜な者を恵むと約束しておられます。プライドが多くの問題の根源であるなら、謙虚さをもって多くのことが解決するはずです。へりくだることは思う以上に困難です。神様に(そして人に)従えないのは、また委ねないのは謙遜が身についていないからではないでしょうか。謙遜な人は、難しい仕事であっても、“自分にできるかわからないが、神の恵みと助けによってやらせていただきます”と言います。同時に自分のちからですべてをやろうとせず、委ねるべき相手に委ねることができます。神様は謙虚に指導を仰ぎ聞き従う者を喜ばれます。そしてそのような人が祝されるのです。謙虚さの欠如が多くの問題の根底にはないか点検してみましょう。プライドは、自分を一番大事にし、神様との関係において状況を見ようとしません。謙遜の恵みは神様から約束されています。神様の前に、人の前に謙るクリスチャンは、用いられ、祝福され、他者にとって祝福となることができるのです。