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ある人が、イエス様を信じない理由として、“信じても何も変わらない”からと言ったそうです。もし、世の中の人がクリスチャンの生き方を見て、そのような結論に至っているとするなら、こんな悲しいことはありません。クリスチャンはイエス様に対する信仰をもったことにより、内面が著しく変えられ、その変化は外側にもあらわれるようになったはずです。それゆえ神様との関係において立場が変化したこと(救われたこと)にとどまることなく、その立場にふさわしく整えられ成長していく必要があります。ペテロは今回の箇所で成長がある信仰者と、無い信仰者について語っています。
I. 豊かな成長の効果(8節)
ペテロは5~7節で学んだ7つの徳が備わっている者は、霊的成長を示しているものであり、実を結ぶこと間違いなしと言っています。
成長の中身:二つの表現で説明されています。
1.「備わり」:これはその人の所有として存在していることの表現で、その人が望み通りに扱うことができることを意味します。これらの質が人格(性質)の(一時的なものでなく)“合法的”な部分となっているということです。
2.「豊かになる」:クリスチャンの成長(徳を加える作業)は絶え間ない過程であるべきで、豊かさへと導かれるものであるべきことを意味します。
成長の結果:信仰者としての特質を有し発展させている者には、役に立ち、実を結ぶという、二つの特長があります。実を結ぶとは、生産的であり、効果的に用いられるということです。神様を知ることはクリスチャン生活の初めであり、過程(継続)であり、ゴール(目的)なのです。「…ない…ない」という2つの否定表現は強い肯定をにじませています。成長の結果としてそのようなことはあり得ないと言っているのです。役に立たないとするなら、それは負っている責任のための労働を避けているということです。それは無益だと指摘されている、行いを示すことができない信仰です。(ヤコブ2:20) 信仰者の継続的成長は、霊的活力のサインであり、怠惰や実があらわれないといった余地を与えません。そのようなクリスチャンは活動的であり生産的で、「神のご性質」(4節)をあらわす者です。8節の「知る点で」を、“知ることに関して”と理解するならば、イエス様の知識において役に立つ者となり、実を結ぶということになります。また「知る点で」を、“知ることに対して”と理解するならば、イエス様についての知識はクリスチャンが継続的に求めていくゴールということになります。ここでの「知る」は、すでに知っているものについて親しいかたちで、また多く知るということを意味します。
II. 成長不在の荒廃(9節)
この節では、信仰者としての特質を有していない者の姿を説明しています。
霊的視力がない:これは道徳的霊的状況を言っています。歩みにおける霊的質の欠如は、それらの質を認識できないことを意味しています。ペテロは二つの視力に関する表現を使い、“非常に近視眼で盲目である”ことを説明しているようです。「近視眼」とは、何らかの理由で霊的な目が半開き状態である、或いは真理に対して意図的に目をつぶっている状態を言います。近いところしか見えず、霊的質を認識できないということです。それは常に世の中にとらわれた見方しかできないことを意味します。このような信仰者は、真の霊的状態を認識できないのです。
救いの恵みを覚えていない:これは内面の変化を忘れてしまっているということです。すでに見た“視力の欠陥”は、古い罪からきよめられたことを忘れることへと導きます。ペテロはバプテスマにおける決意から離れて行ってしまった人を念頭に置いているのかもしれません。バプテスマは、古い罪からのきよめと新しい歩みのスタートの象徴です。この変化を忘れると、救いの確信が失われます。霊的特質の追求を怠っている人は、霊的記憶喪失を引き起こすのです。バプテスマの意義を忘れ、自分自身の霊的状態を把握できず、信仰告白について確信がない残念な状態です。このような人は救われてすべての祝福をもっているかもしれませんが、(あるべき)徳が不在で、疑いと恐れの中で生きているのです。
まとめ:豊かな特質は信仰者を豊かな者とする
人はみことばによってイエス様を知り(信じ)、救いの恵みに感謝し(神の愛に圧倒され)、神様が求める質を身に着けていきます。それにより、神様のお役に立つことができ、信仰者としての実を豊かに結ぶのです。この、知り→従い→行動するサイクルがクリスチャンの成長過程です。このサイクルにみことばがカギとなるのは明らかです。みことばは積極的に受け取ることが重要です。みことばにより、イエス様を知ることで、その思い(感謝と喜び)を伝えたくなります。それが賛美であり礼拝です。イエス様を知ることで、何かをさせていただきたい心が与えられます。それが奉仕となるのです。イエス様を知ることで、イエス様と同じようになることを願います。それが聖められていくということ、神のご性質にあずかるということです。