1月15日 クリスチャンの平常心

パウロは千人隊長のゆるしを得て、ユダヤ人に対して、自分がどのようにしてイエス様と出会って救われ、イエス様のために働く者となったかを話しました。今回の箇所では、パウロの話に対するユダヤ人たちの反応、ローマ軍人の対応、そして渦中のパウロの対応を見ていきます。(使徒の働き22:22-29)

I. 騒ぐユダヤ人 →ユダヤ人たちはパウロの話を最後まで黙って聞いていることができませんでした。彼らの言動は感情と信念とに支配されたものと言えます。彼らにとって、神様からの救い(祝福)が異邦人に(先ずユダヤ教に改宗することなく)同じように及ぶことはありえないことであり、あってはならないことだったのです。そのように教えるパウロは神を冒涜する者でありユダヤ社会から追放されなければならないというのが彼らの考えです。騒ぎ立てる彼らは、まことの神様を視野に入れて対応することができない人の姿です。神様の主権を認めないため、謙虚さや自制が機能しない傲慢な生き方となります。

II. 恐れるローマ軍人 →ユダヤ人の騒ぎに対して、ローマ当局は迅速に対応しました。このような騒ぎになるからには、パウロに何らかの非があるのであろうとの想定のもと、鞭を打って取り調べる準備を整えパウロを縛り上げました。しかし、パウロがローマ市民である(市民権をもっている)ことを知り事態が一変します。(仮に彼に犯罪の容疑があっても)パウロはローマ市民として丁重な取り扱いを受けるはずでしたが、それを怠ったことが明らかとなりました。ローマ市民に対するそのような取り扱いに対しては流刑や死刑といった重い処分が下ります。百人隊長や千人隊長に緊張が走ったことは言うまでもありません。彼らはパウロを実際に鞭打つことはありませんでしたが、彼を縛ってしまったことを恐れたのです。彼らの恐れは、立場(場合によっては命)を失うことから来るものです。人は、守ろうとするものが失われる可能性がある時に恐れるものです。

III. 冷静なパウロ →騒ぐユダヤ人、恐れるローマ軍人たちの中にあって、パウロは落ち着いていました。彼の百人隊長に対する質問は、自身の取り扱いが社会的に不当であることを冷静に認識し確認しています。不当な取り扱いの中でも、彼は感情に流されるのではなく礼儀正しく対応しました。パウロが冷静でいられたのは、ユダヤ人とは違って、神様を視野に入れて対応しているためであり、ローマ軍人とは違って、失う恐れがあるものについては神様に委ねていたからではないでしょうか。

私たちは様々な状況の中で、心を騒がしてしまう者であり、恐れてしまう者です。そのような私たちにイエス様は、(聖霊が共におられることに伴う)この世には存在しない平安の約束をしてくださっています。(ヨハネ14:27)同時に神様からの平安(の約束)は私たちの正しい応答が条件となります。(ピリピ4:4-7)そのことにより、絶体絶命と思われるような状況においても神の「救い」を期待し平安を経験するのです。(出エジプト14:13-14)

まとめ: クリスチャンの平常心は、神様を信じ、神様に従うことによって保たれる

 

 

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