1月31日 Do Right!

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ボブ・ジョーンズ大学の創立者であるボブ・ジョーンズ1世は、説教の中でいくつかの“名言”を残していますが、その一つが”Do Right!” (正しいことを行いなさい)です。2週間前に学んだペテロの言動からもわかるように、私たちは正しいことを実行することができない、弱く罪深い者です。今回注目しようとしている総督ピラトも同様です。彼の姿は罪の性質をもった人間に共通するものではないでしょうか。正しい神様は、私たちが正しい選択をすることを望んでおられます。生活のあらゆる場面において、神様の前にあって正しいことを行うとはどういうことであるのか考えてみましょう。(ヨハネの福音書18章38節後半~19章16節)

I. 妥協するな(18:38後半~19:5)
正しいことを選ぶために、比較する必要はない:総督ピラトは、イエス様が、少なくともローマ帝国を危険に陥れるような人物ではないことを理解していました。その上で、イエス様の無罪を宣言しています。(38節)ピラトはイエス様を釈放するために、「強盗」のバラバと天秤にかけます。ピラトは皮肉交じりに「ユダヤ人の王」という表現を使い、「ユダヤ人の王」を釈放することを提案しました。ピラトはイエス様を訴える者たちが、バラバではなく、イエス様を選ぶであろうと計算したようです。ピラトはイエス様を無罪放免にしようと、悪人を引き合いに出してきました。あたかも“バラバに比べればこの人はいい人でしょ?”と言わんばかりに。しかし、ピラトは間違っていました。ユダヤ人たちはイエス様を拒絶することにおいて手段は選びませんでした。彼らは、人類の救い主ではなく、テロリストのようなバラバの釈放を望んだのです。
正しいことを選ぶために、迎合する必要はない:ピラトは、未だ判決の出ていないイエス様に対して鞭打ちを命じました。鞭打ちは、裸にされ、柱に縛り付けられ、複数の者によって打たれるもので、それは十字架刑を待たずに命を落とす者がいるほどの残酷なものです。さらに兵士たちは、イエス様の頭にいばらの冠をかぶらせ、紫色の着物を着せました。そして悪口と暴力によって、“王様ごっこ”を楽しんだのです。ピラトはイエス様をユダヤ人たちの前に連れ出し、再びイエス様の無罪を宣言します。(4節)ピラトは、この見世物によって群衆の中にイエス様に対する同情が起きることを期待したのかもしれません。“これぐらいで満足してくれ”と思っていたのかもしれません。もしそうであったのなら、彼はまもなく幻滅したでしょう。

II. 責任転嫁するな(19:6~8)
ローマの兵士たちによって“王様”に仕立て上げられたイエス様を見たユダヤの指導者たちは、十字架刑を要求しました。この場面でピラトはこの件から自身は身を引く意思を示し、再度イエス様の無罪を宣言しています。(6節)イエス様の罪を認めながらも、最終決定と刑の執行はユダヤ人にさせ、自身は(判決を出す権限がありながら)この責任から逃れようとしたのです。ユダヤ人たちは、イエス様の罪状について、扇動(暴乱)での訴えは功を奏しないと判断し別の方法を考えました。イエス様がご自分を「神の子」と主張されていることは神への冒涜であり死に値すると訴えたのです。ピラトはこの訴えを聞いて恐れました。彼も迷信深い役人の一人で、自分は超自然のちからを持った存在を痛めつけたことへののろいや復讐を予期したのかもしれません。

III. 神の権威を認めよ(19:9~16)
あらためてピラトはイエス様が何者であるかを問いただしました。ピラトは質問にお答えにならないイエス様に対していら立ち、自分の権威をふりかざしました。イエス様は至って冷静であられました。ピラトに権威があるとするならば、それは神様が与えるものなのです。ピラトは神様の目的達成のための道具に過ぎません。イエス様は不当な裁判の中にあって、父なる神様の主権の中にある慰めを見いだされたことでしょう。神の主権とは別に、人の意思に基づく行動には責任が問われます。(大祭司として神様からの権威と責任を委ねられているはずの)カヤパは、イエス様について、神の御子であられる豊富な証拠を見聞きしながら、意図的に悪辣な計算のもと、ピラトに引き渡しました。その罪は重いのです。
イエス様を釈放しようと努めるピラトは、ユダヤ人たちに付け込まれます。“お前はカイザルに背いている”と。ピラトは裁判の席に着いたものの、もう判決は出たようなものでした。再びイエス様を「王」としてユダヤ人たちに紹介しますが、これは最後の悪あがきに他なりません。ユダヤ人たちは、“カイザル以外に自分たちの王はいない”とまで言いました。
ピラトはイエス様に「真理とは何ですか」と尋ねた人です。彼は救い主であられるイエス様に、そして真実に、そして神の王国に最も近いところにいたのです。しかし、彼は自分自身を保証する(守る)ものと考えたものと引き換えに、真理を犠牲にしたのでした。(ルカ23:24-25)ピラトは何が正しいかを知っていたはずです。しかし、神の権威を認めない彼はそれを実行にうつすことができませんでした。

まとめ: 神様の前に正しいことを行うことは常に正しい
あなたは正しいことを行う上で、人に受け入れられるために、“小細工”をしていませんか。正しいことを行う過程(方法)が間違ってはいませんか。正しいことを行うことについて責任逃れをしてはいませんか。あなたは正しいことを行う上で人の目を恐れてはいませんか。あなたが神様の権威を認めて正しいことを行おうとすると、世間はざわめきます。(イエス様を訴えた人々は何度も叫んでいます。)人々は、あなたがしていることについて、時には悪意をもって対応してくるかもしれません。しかし、クリスチャンはそのような世の中からも救われたのです。クリスチャンの中に住んでおられる聖霊なる神様は、神様を意識させ、善悪について敏感にさせてくださいます。その上でどちらを選ぶかはあなた次第です。神様の前に正しいことを選んでいくことは困難を伴います。何かを犠牲にすることが求められるかもしれません。しかし正しいことを選ぶならば、神様は尊んでくださいます。なぜなら、神様の前に正しいことを行うことは、完全に正しい神様を尊ぶことだからです。

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