イエス様が十字架に架けられた当日は朝早くからユダヤ人達(宗教指導者)による最後の裁判があり、その後ローマ帝国から任命されたピラトによる裁判へと移っていきました。サンヘドリン(祭司長・長老・律法学者らで構成)、群衆、総督ピラトがとりまく中でイエス様は十字架刑へと引き渡されていきます。この3者の言動・行動から人間の「不信の罪深さ」を見ていくことにしましょう。(マルコ15:1-15)
①意図的に神様を信じない罪(祭司長・長老・律法学者)→ユダヤ人宗教指導者達は聖書の専門家であり、人々のお手本になるべき人たちでした。しかし彼らはイエス様を捕まえ、総督ピラトの前に訴えました。またイエス様ではなく強盗のバラバがゆるされるように群衆に求めさせました。彼らはイエス様をねたんでいたのです。人々の目がイエス様に向けられ、自分たちの影響力が低くなっていくことを嬉しく思いませんでした。彼らはイエス様が信ずべきお方であるとある意味知っていながら「信じたくない」人々であったのです。
②無知のために神様を信じない罪(群衆)→群衆は祭司長達にそそのかされるかたちで、ピラトに対してバラバの釈放を要求し、最後にはイエス様に十字架刑を強く求めました。いつの時代でも暴徒化する群衆の多くは充分に考えることなく行動するグループです。彼らは「知らない」人々であったため、結果的に救い主を死に追いやる行動の一部に集団で加わったのです。
③真実を犠牲にして神様を信じない罪(ピラト)→この箇所でのピラトの発言はすべて質問です。彼には事実を確かめようとするそれなりの慎重さがありました。イエス様の返答に驚きを見せながらも、結論を急ぐことのない冷静さがありました。彼は祭司長達がイエス様を訴えている理由を理解しており、彼なりの正義感と公平さをもって対応しようとしている姿がうかがえます。しかし結局のところ彼は、祭司長たちに動かされた群衆に負け、イエス様の十字架刑を決定しました。彼には真実を貫くことよりも大事なものがあったのです。
祭司長達は自分達よりもイエス様が注目されることが面白くないという自己中心的な考えにより、群衆たちは事実はよくわからなくても自分たちの利益になればいいのではないかという自己意中心的な考えにより、ピラトは正しいことを実行することより自分の立場を優先するという自己中心的な考えにより、いずれも「イエス様を信じない」ことを選びました。あなたがイエス様を信ずることができないとするならばそれは自己中心的な理由からかもしれません。イエス様はそんなあなたのためにご自分のいのちを投げ出してくださいました。あなたに必要なことはへりくだってイエス様を救い主として心にお迎えすること、またみことばが真実であること、イエス様が本当に救い主であることを聖書から充分に学び確信をいただくこと、そしてみことばにあらわされている神様の基準(真実)で行動することです。「信ずる者」となったあなたは神様に頼ることを選び、みことばに従うことを選び、神様に喜ばれることを選ぶ者として歩むことができます。自己中心で信ずることが難しい者達のためにいのちを捨ててくださったイエス様に感謝します。