私たちが、「イエス様を信ずる」ということなしに教会に出席するとしたら、それはどのような意味をもつでしょうか。神様との関係においては、なお罪人のままです。罪人のままとは、生まれつきのままであるということです。そのままで生涯を終えるとしたら、罪の中で死に永遠の刑罰に落ちこむのです。
しかし、イエス様を自分の救い主として信じた私たちクリスチャンは、神様との関係正常化を実現していただきました。そのような私たちに神様は何を求めておられるのか考えてみましょう。
神様が私たちに求めておられることは、私たちが永遠に幸せであることです。その中で三つの部分を考えたいと思います。
①主イエス様に来て安息を得ること(マタイ11:28~30):この箇所は、苦労している者、重荷を負っている者に語りかけられています。苦労や重荷の原因については触れられていませんが、クリスチャンである人・ない人へのメッセージがあります。クリスチャンでない人への、イエス様のもとへ来るようにとの招きは、イエス様を信ずる・頼ることへの招きです。その招きに応じる時に苦労の解消が与えられます。クリスチャンであっても、救われる前からの負の遺産、自身の罪の性質、悪魔の働き、世の習慣、親から受け継いだ様々なものにより、苦労・重荷があります。クリスチャンは経験を通して神様から必要なことを学んでいきます。聖書を読み祈ることにより、イエス様の招きに応答し、イエス様が約束しておられる(状況に左右されない)穏やかさを得ることができます。
招いてくださるイエス様は柔らかく優しく心を低くして対応し、語りかけてくださいます。このお方に私たちが語りかけ、頼りお任せすることにより安らぎが与えられます。
②神様に近づくこと:それは悔い改めることが前提となります。(ヤコブ4:8)私たちは生活において自身の歩みを回顧し反省する必要があります。自身の状態に注意を払うことにより、神様との正常な交わりが可能となります。またそれは神様への礼拝のためにすることです。(へブル10:22)
③再臨してくださる主を待つこと(テトス2:11~14):私たちには神様の救いの恵みがあらわされました。私たちは不敬虔(背き)と世の欲を捨て去り、慎み(自身)と正しさ(他人との関係)と敬虔(神様との関係)を身に着けるようにと教えられています。イエス様が再びおいでになることは、幸いな希望です。初臨において見えるところにおいては貧しい中でおいでになったイエス様が、再臨においては栄光の中においでになるのです。私たちは、神であられ、救い主であられるお方を待っているのです。
今生かされている私たちは神様の前に特別な扱いを受けているのです。今年、喜びを持って主を待ち望みましょう。それこそが私たちクリスチャンの幸せです。