“江戸時代にタイムスリップしたら”とか考えたことはありませんか。現代を生きる私たちは、その時代に生きた経験はなくても、ある程度の理解をもって対応できるかもしれません。しかし、その時代の人が現代人を見たり、接したりするとすれば奇異に映ることが多々あることでしょう。身に着けているもの、所持しているもの、話すことばや内容など、そこには彼らが経験したことのない“不思議”が存在するでしょう。
イエス様を信じたクリスチャンもある意味において、世の中では“不思議な”存在です。イエス様との出会い、イエス様による救いを経験しているクリスチャンは、世の中の人とは違った生き方をしているからです。変えられたクリスチャンはなお同じこの世の中で生きています。この世との関係を考える時、覚えておかなければならないことは何でしょうか。(ヨハネの福音書15章18~27節)
I. 世はクリスチャンを憎む(18~20節)
それは世がすでにキリスト様を憎んでいるから:世とは、まことの神様に対して無関心であり、敵対する人々のことです。その背後には邪悪な世界のシステムを支配するサタンの存在があります。それゆえ、この世は神様を憎むのみならず、神様を信じる者、従う者を憎むのです。(Iヨハネ3:13)世は、主に対するように、その弟子に対応してきます。回心する前の使徒パウロがそうであったように、今も、信仰ゆえに迫害を受けるクリスチャンと共に、イエス様は継続して迫害を受けておられるのです。
それはクリスチャンが世と決別したから:人が世に属しているならば、世はその人と友好関係を結んでいます。クリスチャンはその世から選び出されました。クリスチャンはイエス様によって取り分けられ、今までとは違う生き方をし、違う目的を有する者となったのです。
この世は、キリスト様と一つになったクリスチャンを憎みます。クリスチャンは、世に対して無防備であってはいけません。世の流れやそこに住む人々の生き方の土台には、神様を抜きにした価値観や視点が存在しているからです。そしてそれらと接触する時には、常に神様に喜ばれないものが刷り込まれる危険があることを覚えましょう。
II. 世は真実を知らない(21節)
世がキリスト様を憎み、クリスチャンを憎む一つの理由は、キリスト様を知らないことにあります。世は、神についての正しい理解(概念)をもってはいません。それゆえ、神が遣わしたお方のメッセージを正しく評価できないのです。さらに人々の多くは、真実に目を向けようともしません。自分がどこから来て、どこへいくのか、何のために生きているのか、死とは何を意味するのか、といったことと向き合い、本当のことを知ろうともしないのです。
III. 世は罪に象徴される(22-25節)
キリスト様のみことばによって罪が示される:主のお語りになること(そしてその生き様)によってこの世は有罪とされます。人の内面の破滅と偽善とが浮き彫りになるからです。これが、この世がキリスト様を憎み、暴力的反応を示すもう一つの理由です。弟子(信者)が憎まれるならば、それはキリスト様が憎まれるのであり、また父なる神様が憎まれるのです。
キリスト様のみわざによって罪が示される:この世はキリスト様を通して(そのみわざを通して)父なる神様を見たはずでありますが、認めませんでした。主は、神の愛をお示しになりましたが、彼らはその愛に対して憎しみで応答しました。主は光としてこの世においでになりましたが、彼らは闇を選んだのです。こうして彼らは自ら神のさばきの対象となったのです。まことのいのちを与えるお方を拒んだ者に残されたものは死のみです。主のなさったみわざにより、彼らへの有罪判決は明確にされました。主の不思議なわざを見た彼らはかえって心を頑なにし、邪悪な態度を持ち続けました。主のみわざは、彼らの憎しみのもう一つの理由です。
まとめ: 世から選び出された祝福と責任を覚えよ
この世の者ではなくても、この世にいる私たちは、かつて属していた世がどのようなところであるのかを正しく(聖書的に)理解している必要があります。世は神様に敵対し続けており、真実を知ることなく、罪の中で滅ぼされるのです。私たちは、神様の愛と恵みにより、また神様の不思議なご計画により、そのようなところから選び出されました。そのことを感謝しましょう。そして世にある限り、神様のお考えと教えに合わない考え方や生き方に染まることのないよう、みことばを十分に蓄え、聖霊なる神様の助けの中で正しい選択をすることが日々求められていることを覚えようではありませんか。