イエス様は今どこに居られるのでしょうか。天でしょうか。地上でしょうか。私たちと共におられるのでしょうか。私たちの内におられるのでしょうか。聖書の教えからするとそれらすべてはYESです。
イエス様が肉体をもってこの地上に居られた時、その後の居場所についてお語りになりました。今回はイエス様の居られるところについて考えてみたいと思います。(ヨハネの福音書7章32~36節)
I. そこは御父が居られるところ(33節後半)
イエス様はご自分を捕まえようとしている祭司長・パリサイ人の考えをご承知の上で、父なる神様の御心とタイミングに沿って行動されることを明確にされました。ここでもイエス様は父なる神様を「わたしを遣わした方」と仰られました。時が来たらそのお方のところへおいでになるのです。「行きます」は“戻る、帰る”というニュアンスがあるのではないでしょうか。そこがイエス様にとって居るべきところなのです。ここに御父と御子の親密な関係を見ることができます。
II. そこは人が見つけられないところ(34節前半)
イエス様の地上でのご生涯の中で、イエス様が行動され、人々が“追いかける”という図式が常でありましたが、そこには人の側の限界があることをここで明確にしておられます。目に見ることができるお方としては、やがて人々の前から姿を消すことになります。そのような意味で人々はイエス様を追い続けることはできません。彼らのちからの結集でイエス様を捕まえる(捕まえ続ける)こともできません。もう一方で、人が自ら霊的に神であられるイエス様(そしてそのお方が居られる領域)を“見つける”=信ずることも不可能です。神様がイエス様を通してご自分をお示しになって初めてそれが可能となるのです。
III. そこは人が行くことができないところ(34節後半)
人がイエス様を見つけられないことは、同時に人がイエス様のところに行くことができないことを意味します。人の側には聖さの面においても限界があるからです。聖なる神様と罪に汚れた人間に接点は存在しません。あるとすれば、聖なるお方が罪人をさばくということだけです。人は神様の聖さを完全に知ることができませんし、自らそのレベルに到達することもできません。そのような意味において人がそのままでイエス様の居られるところについて行くことは不可能なのです。
まとめ:罪ある者が神様といつまでも共に居ることができるようになった!
罪のある人間にとって、神様の居られるところは「立ち入り禁止区域」です。罪人は神様のところへ行くちからも手段もありません。そもそも聖なる神様に近づくことはゆるされません。しかし、クリスチャンは、罪が赦され、神様との関係が良いものとなり、神様の居られるところに行き、そこに居続けることが出来る者とされました。その現実は今地上に居る時も、地上を去った後も変わることがありません。それがどんなに素晴らしいことか、そしてそれがどんなに大きな犠牲の上に実現しているかを覚えようではありませんか。(ヨハネ12:26; 14:1-3)