人の子イエス・キリスト様は人と交際されるお方です。イエス様がそのようにされる大きな理由の一つは、罪のある人間が救いを経験するためです。それは神様の御心です。イエス様はどのような人間とも接触なさいますが、それでいて悪影響を受けられないことは、私達人間と大きく違うところです。
イエス様はパリサイ人や取税人と呼ばれる人々とも関わってくださいました。(ルカ7:36; 11:37; 14:1; 19:5)ルカの福音書の7章では、シモンという名前のパリサイ人がイエス様を食事に招いています。彼はどのような意図でイエス様を招いたのかは明らかではありません。裕福であったであろう彼が、優越感をもってイエス様を見下すような思いでの行動であったのかもしれません。この食事の席で、その町で罪深い女として知られている女性が登場してきます。彼女は自分の涙でイエス様の足をぬらし、自分の髪の毛で拭い、キスをし始めました。これはイエス様によって罪をゆるしていただいた者としての行動です。イエス様に対する感謝と喜びに満たされ、(周りの目を気にすることなく)そのことに集中している姿です。シモンは祝福の礼儀である油さえイエス様に塗ることをしませんでしたが、この女性はもっと高価な香油をイエス様の足に塗りました。パリサイ人はこの行動に出た女性のみならず、そのような行動をゆるしたイエス様対しても軽蔑の思いをもちました。その思いをご存知のイエス様はたとえ話をシモンになさいました。“多くゆるされた者が多く愛する”という一般的な常識、そしてこの女性がしたことと、シモンがしなかったことから、イエス様は指摘なさいました。私達はどれほど主イエス様に無礼なことをしてきたかということを。
この食事の席におけるイエス様の関心は、当然食事ではなく、その食卓についている人々の心の状態、罪深い状態でした。彼らの罪を指摘される一方で、自身の罪深さを認識し、イエス様によるあがないの尊さを認識して、喜びと愛に満ちているこの女性をイエス様は評価してくださいました。ゆるされた者には平安があり喜びがあります。神様との親しい交流があります。すでに救いを経験させていただいている私達クリスチャンは、主に対する愛と喜びを継続するために、なお自身の罪深さを知ると共に、この罪深い者がゆるされていることの素晴らしさを深く想う必要があるのではないでしょうか。