“人は死んだら神になる”と信じている人がいますが、聖書はそれを否定します。神様が人を造ったのであって、人が神様になることも、人を神様にすることも不可能です。神様によって造られた人は(神のかたちとして造られたのですが)、罪の性質をもったことにより、あらゆる負のものを抱える存在となりました。
イエス様は神の御子ですが、神によって造られたのではありません。イエス様は単なる人ではなく、完全な人であり、同時に神なのです。
私たちは“イエス様は人間とは違うのだ”ということを知らなければなりません。それを知ることが、神様が用意された救いと祝福を受け取る第一歩となるのです。
今回は罪のある人間と神の御子イエス様の現実について考えます。(ヨハネの福音書8章21~30節)
I. 罪のある人間の現実
①罪の中で死ぬ(21、24節):最初に神様によって造られた人は罪を犯したため、その子孫は皆、罪人となりました。人は罪の性質をもって生まれ、自身の人生において罪を犯します。罪によって自身が苦しみ、また周囲が苦しみます。罪の世界にあって、人は苦しみ、悩み、嘆くことが当然の流れとなりました。そして罪の結果として人は死に、その後には神様によるさばき(永遠の刑罰)がなされるのです。
②神様のところへは行けない(21~22節):神様は完全な意味において聖であられ、正しくあられます。そのお方と罪のある人間が関わり(交わり)を持つことは不可能です。神様のご性質がそれをおゆるしにはなりません。また人の側に神様のもとへ行く手段はありません。人が神様と関わるために、自分を“神様が受け入れてくださる状態にする”ことはできないのです。
③下から、この世から出た(23節):罪のある人間は、罪の領域に属している者です。自分の罪、周囲の人の罪、社会全体の罪、そして悪魔の働きが満ちている領域です。この領域の“出身者”は当然のことながら、罪と神様に敵対するあらゆるものの産物でしかないのです。
II. 神の御子イエス様の現実
①上から出た(23節):イエス様はまことの神のもとから来られた神であられます。神様はすべてのことにおいて完全であられます。神様は(誰にも依存することなく)ご自分で、そして時空を超えて存在される永遠のお方です。(24、28節)
②人に信ぜられる(24、30節):人は自分も他人もあてにならないものです。それゆえ自分自身を信じることも、他人を信じることも完全な意味においては不可能です。イエス様は人の罪の問題に真の解決といつまでも続く幸せを与えることがおできになる唯一のお方です。そしてそのようなお方であると信頼することができるお方なのです。
③真実(25~26節):イエス様がご自分についてお語りになる時には、偽りがありません。またお語りになったことには忠実であられ、必ず果たしてくださいます。ですから人は(すでに②のポイントで述べたように)このお方に信頼することができ、平安を持つことができるのです。
④御父と一つであられる(29節):父なる神様は御子イエス様をこの世界にお遣わしになりました。イエス様は常に父なる神様と共におられ、父なる神様の御心をお語りになり、御心を行われたのです。
まとめ:クリスチャンの現実-罪の中で死ぬべき者が、イエス様にあって生きる者とされた
罪をもって生まれ、罪を犯した私たち人間は、罪の中に死んでいく者となりました。それは罪人について神様がお定めになった道筋です。なんと人はあわれな存在でしょう。そしてなんと望みのない人生でしょう。しかし、イエス様はこの現実を逆転してくださいました。死ぬべき者、罰せられるべき者が、ゆるされ、生かされたのです。神様は憐れみに富んでおられ、イエス様を救い主として与え、このお方の死をもって、信じる者を救うことをよしとされました。絶望状態の者に希望の光が与えられたのです。クリスチャンは、死のことを考えないようにしたり、死後のことについて不安を抱えながら生きていく必要はまったくありません。イエス様の死と復活によって、幸いな者として永遠を生きる者とされた神様の恵みを覚えつつ、日々歩んでいくことができるのです。