今回の箇所には「弟子」と「自由」が登場します。弟子に自由というものがあるでしょうか。相撲界には付け人と呼ばれる力士が存在し、関取の日常生活におけるお世話をします。荷物持ちや買い物等、また身の回りの世話や警備、そして稽古相手などをします。自らも関取になることを目指して稽古をしながら、「弟子」として忙しく働く彼らに「自由」があるとは思えません。
イエス様は「弟子」が「自由」になると語っておられます。いったいどういう意味なのでしょう。(ヨハネの福音書8章31~38節)
I. まことの弟子は みことばにとどまる(31節)
イエス様の真の弟子となることの最初のステップは、イエス様を神の御子、自分の救い主として信じることです。そして次のステップは、イエス様のみことばにとどまることです。真の弟子はイエス様から学びその教えを実践する者です。その人はみことばに従うことを続け、イエス様に対する信仰者であることを常に明確にします。(IIヨハネ9)
あなたはイエス様の真の弟子でしょうか。イエス様の前に謙って、学び、奉仕する心を持っているでしょうか。学んだみことばに従い、実践していこうという姿勢があるでしょうか。
II. 真実/みことばは まことの自由を与える(32節)
「真理」はイエス様に関わる事実のみならず、イエス様がされた教えを含んでいます。イエス様において、またイエス様によって示された真理であり、“福音”に近い意味でとらえることができます。真理がもたらすところの自由は、罪からの霊的な意味での自由とその効果を説明します。罪は人をあらゆる面において束縛します。(迷信は人を惑わしますし、死の恐れは人を縛り付けます。)
人はイエス様のみことばを知り、(知的同意のみならず)イエス様に委ねることによって自由にされます。解放されるだけでなく、解放されたことの効果が継続的にあらわされるのです。この自由は好き勝手ができるというものではありません。霊的に死んでいた者が生かされ、今度は神様が喜んでくださることを選ぶことができる自由なのです。(ガラテヤ5:13)
III. まことの自由は 真実なお方が与える(33~36節)
当時のユダヤ人たちがそうであったように、人は自分が奴隷であるという感覚はありません。しかし、罪のある人間は、そのままでは皆罪の奴隷です。「罪を行っている者」とは習慣的(常習的)に罪を犯している者です。神様に対するあらゆる不従順の行動は、自らを神様から遠ざけさらなる不従順の流れを作ります。そしてそこから抜け出すことができなくなってしまうのです。
その究極の奴隷状態にある罪人を解放するためにイエス様は来られたのです。イエス様だけが人の根本的な問題である罪を解決し、自由にすることがおできになります。
あなたは神様のみことばによって、またイエス様の教えによって真の自由を経験していますか。みことばの真実は、神様がお喜びになることを選ぶようあなたを促し励ましているでしょうか。
まとめ:イエス様のまことの弟子は、真実/みことばにとどまり、まことの自由を経験する
世の中の師弟関係において、弟子は師匠から学び、時には師匠を越えることがあります。しかし、クリスチャンが「師」であられるイエス様の“ように”なることはあっても、イエス様と並ぶこと、ましてやイエス様を越えることはできません。(マタイ10:24-25)
イエス様のまことの弟子はイエス様の教えに従い実践します。イエス様によって与えられた救いの効果が人生においてあらわされるのです。それはまことの自由を持つ者です。イエス様がお喜びになることを行なうことができる自由を持つ者です。
クリスチャンは、かつて罪の奴隷でしたが、イエス様によって解放され、義の奴隷となりました。(ローマ6:17-18)このことが立場としてだけでなく、実生活においてあらわされることをイエス様は望んでおられます。まことの弟子はイエス様を信じて従い続けます。それは成熟へと向かう信仰者の姿であり、まことの自由を得た者の姿でもあります。