今週はマルコの福音書14:66-72から「主を否定する信仰者」を学びました。イエス様が裁判を受けておられる時、ペテロは大祭司の庭で神殿守衛達に混じって火にあたっていました。ペテロは大祭司の奴隷(女中)達からイエス様との関係のことを質問されました。ペテロはいずれの質問にも「NO」と答え、最後には誓いまでたてました。ペテロはイエス様が予告された通り、「イエス様を知らない」と3度言ってしまいました。
先ず①主を否定することの意味を考えましょう。ペテロが「イエス様を知らない」と言ったことには少なくとも2つのことが含まれています。1つはイエス様との関係について「NO」と言ったことです。ペテロは3年以上イエス様と生活し、イエス様から教えを受け、イエス様の素晴らしい(奇跡などの)わざを間近で見てきました。彼は12人の弟子の中でも一番イエス様に近い者の一人として行動していました。彼がイエス様との関係について否定したことは、ウソの発言である以上に、イエス様に対する裏切り行為です。もう1つはイエス様自身について「NO」と言ったことです。イエス様は神の御子であられ、罪人の救い主であられます。そのお方を否定するということはイエス様が神様であられること、罪人の唯一の救いの道であられることを否定することになります。実際のところペテロはイエス様を信じることをやめたわけではありません。イエス様への愛も尊敬もなくなってしまったというわけでもありません。しかし結果的に彼は行動でイエス様を否定することになったのです。
次に②主を否定することの理由(原因)を考えましょう。ペテロが「イエス様を知らない」と言うことになってしまった原因は少なくとも二つあります。1つはイエス様の言葉を信じなかったことです。イエス様はペテロが3度「イエス様を知らない」と言うことを予告なさいました。みことばを信じない時に間違いが起きるのです。もう1つはペテロが自分の弱さを信じなかったことです。言い換えればペテロの自信過剰がこのような失敗を招いたということです。イエス様(神様)を信じないことは自分を信じることにつながります。不完全な自分に頼ることは罪を犯す可能性をひきよせることになるのです。ペテロは結果的に自分で自分を守ろうとしてしまいました。彼はイエス様にも世間にも「良い顔」ができる位置に自分を置こうとしたのかもしれませんが、それが不可能であることを学ぶことになりました。
最後に③主を否定する者への希望を考えましょう。ペテロは3度「イエス様を知らない」と言った後で、鶏が鳴くのを聞き、イエス様の予告の言葉を思い出しました。そして彼は泣きました。イエス様の弟子の中でもリーダー的な存在であった彼でしたが、惨めな姿がそこにはありました。しかし、少なくとも彼はイエス様の言葉を覚えていたのです。イエス様に対して大きな罪を犯してしまった彼でしたが、回復の希望がそこにはありました。長年みことばを聞いていてもある人の心には響かないかもしれません。しかし、みことばが意味をもって人の心に届く時、ある人にとっては救いの体験となり、ある人にとっては信仰生活が回復するちからとなるのです。イエス様はペテロに対してなお愛と憐れみをかけてゆるし、回復させてくださいました。失望した彼を抱え起こし、この後イエス様のために力強く活躍する人へと彼を変えてくださったのです。
この世の中で、イエス様を信じたクリスチャンであることはしばしば難しさを覚えます。イエス様を信じていても、人から「変に見られたくない」「文句を言われたくない」などの理由からクリスチャンであることを言わないようにしようと思ってしまうことがあるかもしれません。学校・職場・地域におけるクリスチャンとして受ける「プレッシャー」は確かに大きいものです。しかし私達が覚えておく必要のあることは「独り相撲」しなくても良いということです。神様に、みことばに頼ることができます。毎日の生活の中で私達は自分の弱さを認め、守り導いてくださる神様を見あげることができます。そこにはイエス様に身を委ねることによる力強さ・勇気・平安があり、イエス様を「否定する者」ではなく、「証しする者」の姿があるのです。言葉と行動によって主をあらわすちからを神様からいただきましょう。