前の章の最後の節(53節)から8章11節は、聖書の原典には含まれていない可能性が極めて高い箇所です。しかしながら、その箇所に記されていることがフィクションであるとは限りません。それゆえこの箇所を学ぶことには意義があります。今回は人の罪深さとイエス様の憐れみ深さについて学びたいと思います。(ヨハネの福音書8章1~11節)
イエス様が、朝早くから神殿で人々に教えておられる中で、律法学者やパリサイ人が一人の女性を連れてきました。この女性は「姦淫の現場」で取り押さえられた(とされる)人です。そしてモーセの律法では石打ちの刑となる彼女をどのように取り扱うか尋ねたのでした。律法学者やパリサイ人は、この件で、どのように正しく律法を適用すべきかということに関心があったのではありません。またこの女性を死刑にしたかったということでもありません。6節にあるように、イエス様を試し、イエス様を訴える材料を得ようとしていたのです。これは彼らがイエス様に対して常にしていたことです。(マルコ10:2; ルカ6:7)
旧約聖書において、姦淫は死刑(石打ち)に処せられる罪として取り扱われています。(レビ記20:10; 申命記22:22)この類の罪は相手方が存在するはずですが、男性はなぜ連れてこられなかったのでしょう。死刑にするためには、2人以上の証人を必要とします。姦淫の場合、罪の性質上、2人の証人を得ることは通常困難です。それゆえこれは律法学者やパリサイ人の仕組んだワナの可能性が非常に高いと言えます。
イエス様はすぐには彼らに応答せず、黙ったまま地面に何かを書いておられました。イエス様は対応に苦慮しておられたのではありません。またこの件を無視しようとしておられたのでもありません。
イエス様は問い続ける彼らに対して「罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」と仰いました。そして再び地面に何かを書いておられました。旧約の律法では、死刑の際、それは目撃者によって開始されることが定められています。(申命記13:9; 17:6-7)誰も石を投げようとはしませんでした。それどころか、年配の者から一人、また一人とその場を去って行きました。文語では、彼らは「良心に責められ」たとあります。イエス様をジレンマに追い込もうとした彼らが逆にジレンマに追い込まれたのです。
イエス様はここで初めてこの女性に話しかけられます。「婦人よ」の呼びかけは尊敬を込めたものです。そして、自分を罪に定める者が存在しないことを確認させ、またイエス様も彼女を罪に定めないことを明言されました。
I. 人の罪深さ
①行動にあらわされる罪:人は神様の前に罪のある存在です。人は神様を畏れ敬わないことにより罪を犯します。その罪は様々なかたちであらわされます。神様を恐れ(畏れ)ない一方で、自分を一番にして行動します。その結果、自分の気持ちや欲求、そして利益を優先させるのです。
②心の奥底に存在する罪:罪は心の内面にあるものが、ある条件のもと、外側にあらわされたに過ぎません。(外側にあらわれる)姦淫は確かに罪ですが、そのようにしてしまう心に問題があります。律法学者やパリサイ人はイエス様を陥れようとしましたが、その悪意はこの女性の不道徳と同じように罪深いのです。
II. イエス様の憐れみ深さ
①罪を責められる:イエス様は神様の標準に従って、人の内面も外面も裁かれます。良心の働きとともに、神様が人の罪を責められることも神様の憐れみによります。人がそれに正しい応答をし、自分の罪と向き合い、悔い改めるならば、その人のその後には希望があるからです。
②罪をゆるされる:神様の前における罪を悔い改める人、神様が「それは罪だ」と仰られることに自分も同意する人にはゆるしが与えられます。今回の女性の悔い改めの発言は記録されていませんが、彼女の心の変化がそこにはあったはずです。イエス様は彼女に新しい歩みを始めさせてくださいました。それはゆるしを好まれるイエス様の憐れみによります。
まとめ:私の罪深さにまさる イエス様の憐れみ深さに感謝
私たちはかつて 何が罪であるのかわかりませんでした。そしてその罪の重みとその罪がもたらす結果の深刻さも知りませんでした。神様の正しさの標準を突き付けられた時、私たちは死と滅びに値した者たちであることを認識し、ただこのお方の前にひれ伏すのみでした。神様は私たちに罪を示すことによって希望の道へと導かれました。私たちが、(本来はしたくない)自分の罪と向き合うことにより、罪を認め悔い改めることへと導かれました。私たちは新しくされ、新しい人生のスタート地点に立たせられ、イエス様と共に歩み始めたのです。それはただ主の深い憐れみによります。私たちの心は墨よりも黒い罪で満ちていましたが、イエス様の十字架上における犠牲の血はそのすべてを洗い流したのです。