聖書が人類にとって特別な書物である理由は、神様からのメッセージであるとともに、そのメッセージに対する応答が人類に求められていることです。神様は真実を提示し、人はそれに対する個人的な立場を表明するのです。(それは好むと好まざるとにかかわらず、また意識的にも無意識的にもです) 神様はご自分がどのような存在であるかを紹介し、人類の真の姿を説明し、人類の救いの方法を教えます。自由意志を与えられた人は、それに対して肯定的に、そして従順に応答することもできれば、否定的に、そして反抗的に応答することもできます。今回は、ことばなるお方であられるイエス・キリスト様に対する後者の応答について学びたいと思います。(ヨハネ1:9~11)
I. ことばなるお方の到来 (9節)
ことばなるお方は「まことの光」としてこの世界においでになりました。このお方こそが本物の光であられ、神を人にあらわす究極の存在であられます。この光は人を啓発し、教え、導きます。このお方のみが、人に人生の意味と目的を示すことができます。このお方は人が神様を見ることができ、また自分自身を見ることができるように助けるのです。イエス様はそのために光なるお方として肉体をお取りになりました。
(ロマ1:19-20; 2:12-16 ; ヨハネ1:14; 3:19; 12:46)
II. ことばなるお方に対する無知 (10節)
ことばなるお方は永遠のご存在であられます。また創造主であられます。それにもかかわらず、人はこのお方を知りません。このお方を認識できないだけでなく、このお方と正しい関係にないのです。問題は、光なるお方にあるのではなく、罪のある人の側にあります。そのような現実の中で神様はなおご自分がお造りになった者たちを愛し憐れんでおられるのです。(ヨハネ3:17)
III. ことばなるお方に対する拒絶 (11節)
ことばなるお方は、ご自分のものの所(所領)においでになりました。(「ご自分の国」は世界の人々である、或いは神の家であり家族としてのイスラエルの土地と人々であるという見方もあります)ですから所有権はこのお方にあります。しかしご自分の人々はこのお方を歓迎しませんでした。(「ご自分の民」はユダヤ民族であるという見方もあります)世界はこのお方に属していながら、このお方を認識することができず、反って拒絶したのです。
(エレミヤ7:25-26; ヨハネ12:37-41)
まとめ:ことばなるお方の民とされたことを感謝し、みことばの光の中を歩みましょう
私たちはそれぞれ違った境遇の中で、まことの光なるお方との出会いを経験する恵みに与りました。まことの光に照らされたことにより、まことの神様を知ることができました。またまことの光によって浮き彫りとなった神様の前における自身の罪と向き合い、神様からのまことの救いを受け取ることができました。そして、今まことの神様、そしてことばなるお方からのみことばの光の中を歩む幸いが与えられています。霊的に、そして永遠にイエス・キリスト様の者とされたことを覚えつつ、光の中を歩む恵みを、その豊かさをさらに経験させていただきましょう。