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コロナ禍となった今年の世間を見渡せば、“いいことがあまりない年だった”という見方になるでしょう。確かに今の状況は喜ぶことができるものではありません。人が喜びの条件を外的なことに依存しているならば当然です。しかし、クリスチャンはどうなのでしょうか。世の中の人が喜ぶことができなくても、喜ぶことができる理由があるとすればそれは何でしょうか。喜びの条件を、“何をもっているか、どのような立場にあるか、どんな関係(コネやツテ)があるか”で考えるとしましょう。クリスチャンには、喜びの理由となる、何があるでしょうか。(ヨハネの福音書16章16~24節)
I. イエス様が共におられる事実(16~19節) “神をもった”
人は、神を、“目に見えるもの”として求める傾向があるようです。イエス様の弟子たちにとっても、主が姿を消すことが心の動揺を引き起こし、喜びが奪われる原因となっても不思議ではありません。そのような彼らの心をご存知のイエス様は、まもなくご自分が彼らのもとを去って行くことに加えて、まもなく再会することを約束されました。去っていかれること、また再会できることに使われている「しばらくすると」の表現がいつの時点のことであるのかは断定することが困難です。十字架の死において、イエス様は去って行かれ、復活において再会されると理解できます。或いは復活後の昇天において去って行かれ、聖霊が降られる時に、聖霊において再会されると理解することもできます。さらには、昇天において去って行かれ、空中再臨において再会されると理解することもできます。いずれにしても、イエス様はクリスチャンのもとからいなくなってしまわれるのではなく、戻ってこられるということ、そして聖霊の存在において、常に共におられるということです。イエス様を信じた人は、聖霊が内に住んでおられることを喜びつつ、イエス様がやがて来られることを待ち望むことができるのです。
II. イエス様が救い主となられた事実(20~22節) “新しく生まれた”
イエス様が逮捕され、苦しみと辱めを受けられ、死に渡されていくことについて、弟子たちは大きな悲しみを覚えたことでしょう。しかし、イエス様の経験された一連のみわざこそが、弟子たちに、そしてイエス様を信じる者たちに、喜びと幸いをもたらすのです。イエス様に敵対する者たちはイエス様の死を喜びましたが、信者は、その事実を喜びの栄光ある要因としてとらえることができるのです。イエス様は敗者ではなく、勝利者であられ救い主であられるからです。このお方により、クリスチャンは新しい誕生を経験したのです。弟子たちは、イエス様の昇天後、信仰ゆえに様々な苦しみを経験しました。今を生きるクリスチャンも少なからず、信仰の戦いがあります。しかし、やがてイエス様にお会いする時、それらすべての苦労や悲しみは忘れ去られるのです。イエス様による身代わりの死、十字架の意義を理解する者は、心の底から喜ぶことができます。その喜びはこの世から独立したものです。世はその喜びを提供することはできませんし、奪い去ることもできないのです。
III. イエス様の御名によって求めることができる特権(23~24節) “神と交流できる”
イエス様が復活され、ご自分を弟子たちにあらわされた時、彼らにとってイエス様の復活の真実とイエス様の正体については疑いのないものでした。また、イエス様が天にお帰りになり聖霊なる神様が降られる時、聖霊が弟子たちにすべてのことを教え、イエス様のことばを思い出させ、すべての真理に導かれます。そして、弟子たちは(そして今を生きるクリスチャンは)イエス様にあって、父なる神様に祈り求めることができますし、応えをいただくことができます。その事実はクリスチャンの喜びとするところです。神様が天の祝福を、信じる者一人一人に備えてくださるからです。イエス様は肉体的には存在されませんが、イエス様の御名において、クリスチャンは父なる神様と交わることができるのです。
まとめ: イエス様によって与えられる喜びは、神からの喜びです
クリスチャンは、世の中で何ももっていなくても、まことの神様を知り、信じています。言い換えれば、クリスチャンは必要なすべてをもっているということです。罪がゆるされ、救われ、永遠の幸いを自分のものとしているからです。また、世の中で認められることがなくても、イエス様によって新しくされた者であり、神の子という立場を与えられています。そして、この世では人脈がなくても、この世界を造り保っておられる偉大な神様との個人的な関係が与えられています。クリスチャンはこのお方に語りかけ、祈り求めることができるのです。このようにクリスチャンはイエス様によって、喜ぶことができる十分な理由をもっているのです。