神の御子であられるイエス様は人とし生まれてくださいました。この驚くべき出来事は、マリヤという一人の(未婚の)女性を通して実現しました。マリヤは(肉体的には)通常 妊婦が経験するであろうプロセスを経て出産に臨みましたが、彼女の妊娠中に同じく妊娠中であった親類のエリサベツと時間を共にしたことが聖書の中に記事として残されています。この場面における、神様に対するマリヤの告白―マリヤの賛歌(マグニフィカト)からクリスチャンに可能な姿勢(告白)について学んでみましょう。(ルカの福音書1:46~49節前半)
I. 私は神様をあがめます (46~48節前半) →エリサベツの祝福を受けたマリヤの応答には神様に対する賛美が満ちていました。そこには彼女の神様に対する敬虔深さと、みことばの知識の豊かさがあらわされています。マリヤは偉大であられる神様をあがめました。みことばに親しむことによって神様に近づき、神様のみことばによって、より神様を知っていたマリヤが、神様をあがめることは必然です。私たちも“ハレルヤ、賛美します、あがめます”という表現を使いますが、それらは神様(みことば)の知識と黙想に基づいているものでしょうか。神様をあがめるマリヤには、同時に神様に対する大きな喜びがありました。マリヤは“聖母”ではなく、他の人々と同様に個人的な「救い主」が必要である(罪人である)ことを認め、そのお方の存在を心から喜んだのです。
マリヤが神様をあがめる直接的な理由として、神様が自分を顧みてくださったことをあげています。彼女は社会的な意味においても低い存在であったことを認めていたと思いますが、神様の前にある(罪人ゆえの)自分の卑しさを強く認識していたのでしょう。そして同時にこのような自分に目を留めてくださっている神様の配慮・愛のケアを認識したからこそ、神様への賛美と喜びが溢れたのでしょう。神様が“こんな”自分をどのように取り扱われているかを認識する時、私たちは神様に対して個人的な賛美と喜びを表現する者となることができます。
II. 私は幸せ者です (48節後半~49節前半) →マリヤはイエス様の母という立場をいただいた祝福を表現しました。全能なる神様のみわざにより、自分には真の幸いが与えられたこと、そしてそれを人々が何代にもわたって認めるであろうことを告白しています。私たちが、マリヤと同じ経験をするわけではありませんが、私たちも神様の視点における、いつまでも続く幸せをいただいていることは事実です。世間はそれを認めることができないとしても、まことの神様を知り、信じ、このお方との永遠の関係に入っている私たちは、真の幸せを持つ者なのです。
マリヤは全能なる神様が、自分に大きなことをしてくださったと告白しています。罪のある自分のために、ゆるし・身代わり・救いが備えられたこと、そして霊的に生きる者と変えられ、神様のお役に立たせていただける身分とされたことは神様の大きなみわざ(奇跡)です。神様からいただいたマリヤの役割はとてつもなく大きなものでしたが、私たちも救いにおいて、個人的に大きなことをしてくださる神様を経験し、また信仰生活において、大きなことをしてくださる神様を経験することができる者とされました。それを覚え信ずることができる人は幸いです。
まとめ:まことの神様を知る者は、常に前向きになることができる充分な理由をもっている →マリヤの妊娠期間は通常の妊婦が経験するものとはレベルの違うものだったでしょう。彼女の心配や恐れはいかばかりのものであったでしょうか。今回の箇所はそのような状況の中での賛歌―信仰告白であることを覚えなければなりません。彼女の前向きな告白は、彼女が(置かれている状況ではなく)神様のされていることに注目していることから発生しているということです。私たちの生活においても、新しい経験・課題・段階等において大きなプレッシャーを覚え、後ろ向きになってしまうこともあるでしょう。しかし、神様を見上げましょう。もっと神様を知りましょう。あなたもマリヤと同じ告白ができます。同じプラス思考を持つことができます。その充分な理由をみことばは提供しています。