十字架に向かわれる主イエス様は、尊い礼典を弟子たちに残されました。裂いて弟子たちに配られたパンはイエス様のからだを象徴します。パンを食べることによってイエス様を記念するのです。すでに学んだように杯はイエス様の血を象徴し、パンの時と同様にイエス様を記念します。それは人の罪がゆるされ、神様に受け入れられることをあらわすという特徴があります。パンをいただくという行為においては、霊的なパン、つまりイエス様の(傷つけられ、殺され、復活した)からだをいただくことをあらわします。見えるパンをいただくことにより、見えないいのちが与えられていることを覚えるのです。みことばによりいのちが供給されていることを覚えるのです。教会は世界的な意味における巨大なキリスト様のからだという面と、各地方の教会という側面とがあります。健全な教会は様々な意味において人々を助けることが可能です。
Iコリント12章にあるように、人はイエス様を信じた時に聖霊により教会の中に入れられるのです。(信者が聖霊によって覆われ、また聖霊が中に入るという両面があります)神様はからだの各部分である信者を配置しておられます。ですから各器官(信者)は卑下すべきでもなく、傲慢になるべきでもないのです。健全なからだ(教会)は各々が分裂を起こすことなく互いにいたわりあいます。主の晩餐は信者一人一人がキリスト様のからだの部分であることを自覚するための式でもあるのです。