ルカの福音書はイエス・キリスト様がお生まれになったことを一番詳しく記している書です。1章に御使いが、ガリラヤのナザレの町に住んでいるマリヤという女性にあらわれる記事があります。ガリラヤはエルサレムからは北に位置する田舎です。神様はひとり子イエス様をこの世界にお遣わしになる計画において、あえて注目されない地方に住む女性を選ばれました。マリヤは処女であり清純な女性でした。ダビデの家系のヨセフという男性の婚約者であったマリヤですが、彼女にとって驚くべき知らせが届いたのです。御使いは、マリヤが“神の子を授かる”という恵みを受けること、神様が共におられることを祝福しました。マリヤにとっては急なことでもあり、恐れを抱くのは当然です。しかし、これが神様の方法でした。神様は救い主をこの世界にお送りになるために、マリヤを使われたのです。マリヤは生まれてくる赤ちゃんがどのような存在であるかの説明を受け、さらにマリヤは聖霊なる神様のちからによって子を宿すことが知らされました。この子どもは罪のない存在として生まれる必要があります。それでいてアダムの子孫である必要がありました。この神様の方法は生まれてくる子どもが救い主の資格をもつために必要だったのです。マリヤには充分な理解がなかったでしょう。しかし彼女は受け入れ、従いました。
神様の御計画により、救い主は誕生し、十字架の死と復活を通して、私達に救いは実現しました。私達は死と永遠の刑罰の原因である罪をゆるしていただき、永遠のいのちを約束されました。それは何にも勝るすばらしいものです。しかし、今地上においてこのすばらしい救いの効果を生活の中であらわす必要があります。この時季、イエス様の誕生に思いをはせる時、私達救いの対象になった者としての責任、あるべき姿をもう一度考えてみましょう。