例外はあるにしても、他人との信頼関係には一定の時間を必要とするのではないでしょうか。お互いに知り合うことにより、互いの理解が深まり、そこに(すべての場合とは言えませんが)お互いを信じる思いが生まれるものです。神様との関係はどうでしょう。神様は私のことを全部ご存知であられます。その意味において神様が私を“知っていく”作業は必要ありません。しかし私の方は神様について知らないことが沢山あります。ですから私はイエス様を“知っていく”努力が必要となります。私はイエス様を信じていますが、その信仰が豊かなものとなるためには、さらにイエス様を知り続けなければなりません。イエス様は聖書のことばによって、ご自分をお示しになっておられます。私に“知っていこう”とする姿勢がある限り、イエス様はご自分についての理解を私に惜しみなく与えてくださるのです。
今回の箇所では、イエス様によるご自分についての主張がいくつか登場します。これらからイエス様について何を学ぶことができるでしょうか。(ヨハネの福音書8章48~59節)
ユダヤ人たちは、イエス様について(自分達よりも劣っている)サマリヤ人であるとか、悪霊にとりつかれているなどと言い出しました。(vv.48、52)これが彼らのイエス様についての見解です。彼らは「あなたは、自分自身をだれだと言うのですか」と質問していますが、イエス様はご自分についてどのように語られたのでしょうか。
I. 父なる神様を敬うお方(49節)
悪霊につかれている人は、悪魔の支配下で、悪魔を敬いますが、イエス様は父なる神様を尊び敬われます。イエス様がそうされたように、私たちもイエス様を敬い畏れて従う者でありたいです。
II. 父なる神様の栄光を求めるお方(50、54節)
イエス様はご自分の栄誉をお求めになるのではなく、父なる神様の栄誉をお求めになります。それは父なる神様がほめたたえられることをお求めになることであり、父なる神様からの栄光をお求めになることです。
III. 永遠のいのちを与えるお方(51節)
イエス様を信じて従う人には死後の永遠の幸いが約束されています。この節の「死を見る」とは肉体的な死のことを言っているのではありません。それは霊的なもので、神様と永遠に離れ離れになるということです。イエス様を信じた人も肉体の死を経験しますが、イエス様によって与えられる(永遠の)いのちは、その死によって消え去るようなものではありません。イエス様を信じる人にとって、肉体の死は永遠への通過点であり、天国に足を踏み入れる瞬間です。
IV. 父なる神様から栄光をお受けになるお方(54節)
V. 父なる神様との交わりの中にあられるお方(55節)
イエス様と父なる神様との間には究極的に親密な交わりの関係が存在します。イエス様はご自分を“嘘つき”とすることなしに、父なる神様についての知識を否定することができないのです。
VI. 父なる神様のことばを守るお方(55節)
イエス様は(最初のポイントで見たように)父なる神様を敬われるため、父なる神様にお従いなさいます。私たちも、イエス様を知るにつれ、イエス様のみことばに従う者でありたいです。
VII. 「我は在る」であられるお方(59節)
旧約時代のアブラハムには、“存在するに至った時”がありましたが、イエス様は同じようではありません。イエス様は常に“在る”であられるのです。(“あった”でもありません) イエス様は初めも終わりもない永遠の御存在であられるとともに、ご自分で存在することが可能な唯一のお方です。(出エジプト3:14、マルコ14:61-62)
まとめ:イエス・キリスト様を尊び、イエス・キリスト様にならい、イエス・キリスト様に従いましょう
イエス・キリスト様のお生まれを特に覚える月を迎えています。イエス様の誕生の大きな目的は、私の罪の問題の解決をすること、そして永遠のいのちを与えることです。しかし、イエス様はそのためだけに肉体をお取りになり、この世界に来られたのではありません。イエス様には十字架前後の地上での生活がありました。そこにはイエス様の教えがありました。それは私が学ぶべきことがらです。イエス様が来られたのは、イエス様がどのようなお方であられ、何をされたのか(またされるのか)を私が学ぶためでもありました。それにより、立場においてだけでなく、状態においても「新しく生まれさせられた者」として歩むことが可能となります。私はさらに主を知り、恐れ、敬い、尊ぶ歩みを追求していきたいと思います。主の模範にならい、主に似た者と変えられたいと思います。主に従い、主に栄光を帰することを求めるものでありたいと思います。あなたはいかがですか。